この作品が作られた 1818年頃、ベートーヴェンはイギリスの出版者ジョージ・トムソンからの依頼を受け、180曲ほどの民謡に伴奏を付けた作品を残している。
その辺りの事情を、下記資料を元に簡単にまとめておきたい。
✏️ベートーヴェンの編曲作品(国立音大資料 PDF)
「ベートーヴェンの民謡編曲」(藤本一子)
✏️ベートーヴェンとイギリス(世界の民謡・童謡)
民謡・国歌の変奏曲・編曲集について
✏️25のアイルランド歌曲集——ベートーヴェン初の民謡編曲集!(ONTOMO)
18世紀末から19世紀にかけて、ヨーロッパでは「民謡」熱が高まった。とくにイギリスでは民謡に対する思い入れが強かったが、その背景にはイングランドによる、スコットランド、アイルランド、ウェールズへの政治的・宗教的な抑圧の歴史があると思われる。
スコットランドのヴァイオリン奏者ウィリアム・ネピアはスコットランド歌集を出版したが、経済的に苦境に陥った。それを救ったのが、当時ロンドンに滞在していたハイドン。
100曲のスコットランド民謡に伴奏をつけることで、ネピアを支援した。それがきっかけで、その後、出版者ウィリアム・ホワイトやジョージ・トムソンからの依頼に応じて、ハイドンは 350曲以上の民謡編曲を残している。
熱烈な民謡愛好家でもあったジョージ・トムソンが、ハイドンの次に目をつけたのがベートーヴェンであった。ベートーヴェンは、当時創作が滞りがちで、経済的にも不安な状態だったので、ハイドンと同等以上の報酬を条件にこれを受けた。
この関係は 1809年から1820年まで続いて、現在知られているだけで 179曲の民謡編曲が残されている。最も作品が多いのは 1810〜1813年。
なお、当初は歌詞のない旋律だけだったが、ベートーヴェンの要請で 1813年からは歌詞が付けられた。ベートーヴェンはそこにピアノ、ヴァイオリン、チェロ、フルートなどの伴奏をつけて 3セットほど筆写させたものを別ルートでイギリスに送った。
複数のルートを使ったのは、ナポレオン戦争(1803-1815)下で郵便事情がよくなかったためである。そのため、異稿も多く残されており今後の研究が待たれる状態のようだ。
ベートーヴェンの民謡編曲としては下記の作品がある。
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- Op.108 25のスコットランド歌曲集
- WoO152 25のアイルランド歌曲集
- WoO153 20のアイルランド歌曲集
- WoO154 アイルランド歌曲集(12曲)
- WoO155 26のウェールズ歌曲集
- WoO156 12のスコットランド歌曲集
- WoO157 イギリス、スコットランド、アイルランド、イタリアの歌曲集(12曲)
- WoO158 Ⅰ:23の諸国民謡、Ⅱ:7つのイギリス民謡、Ⅲ:6つのさまざまな民謡
その他 Hess 番号付や番号なしのものが20曲ほど知られている。
ちなみに、WoO153 には "The last Rose of Summer" が含まれており、これは日本では「庭の千草」として知られている曲だ。同じ曲を主題とした変奏曲も Op.105「6つの民謡主題と変奏曲」に入っている。
また、「蛍の光」の原曲として有名なスコットランド民謡 "Auld Lang Syne" は WoO156に含まれている。
この民謡編曲がベートーヴェンの作品にもたらした影響などについては、まだ十分に研究されていないようだが、交響曲第7番の第4楽章の第1主題は WoO154 に収録された "Save me from the grave and wise" から影響を受けているとの説があるようだ。
ちなみに、ジョージ・トムソンからの依頼で作曲されたものには、1803年の「イギリス国歌の主題による7つの変奏曲」(7 Variationen über "God save the King")WoO78 がある。
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