2021年10月26日火曜日

務川慧悟くんの論文:ピアノを弾く意味「体得は知である」

ショパンコンクールで盛り上がってる頃に務川くんのこの記事(↓)を見つけて、とても面白くて興味深かったので感想文を書こうと思っていたのだが、コンクールで忙しくて、やっと読み直すことができた…(^^;)♪

✏️身体性と思想性の連関について(務川慧悟)

プロのピアニストの頭の中を少し見せて貰ったような気がする ♪


ワルシャワの秋(撮影:務川慧悟)


以前から、私が趣味でピアノを一人で練習することって、ボケ防止以外に意味があるのだろうか?…という疑問をぼんやりと抱いていた。まぁ、楽しいからではあるが…。

私の場合、練習するのも一人だし、誰に聴かせる訳でもない。強いて言えば、ウチのカミさんは隣の部屋で何気に聴いているし、たまにアドバイスを戴くこともあるが…。

この務川くんの論文?を読んで、その疑問が少しだけ解けたような気がした ♪ …とは言え、務川くんの文章の趣旨は、私の疑問と直接は関係ないのだけれど…(^^;)。


ちなみに、務川くんはピアニストには珍しく?、意外に「理屈っぽい」性格のように見える。私自身もそういう傾向があるので、ちょっと親近感を感じたりする。

…のだが、この文章はやや理屈っぽさがあって?、必ずしも分かりやすくはないと思う。

なので、この記事は、自分自身に関係するところを中心に書くつもりである。


最初に、私なりに理解したこの論文の「趣旨」を簡単に書いてみる。

ピアニストが一つの作品の演奏を仕上げ極めるということは、分析や思考だけで到達できるのではなく、身体を使って弾き込む作業を時間をかけて続けることでなされる。

そして、務川くんの言葉を引用すると、

そもそもピアニストの思想を推し進めているのは技術なのではないか。技術で思考をする。身体性を介して音というものについて思索する。それを生業にしているのがピアニストなのではないか

…ということになる。


そして、読者(ピアノを練習している人)に向けて、こう言っている(↓)。

で、ありますから、今日も恥ずかしがらずに沢山の練習をしよう。自己の身体を存分に割いて、素晴らしい作品を(すなわち思想を)身体性によって体得しよう。身体が覚えてしまうまで繰り返した偉大な作品は、そのままあなたの精神の糧になっている


つまり、自分の身体(と頭脳)を使って弾き込んだ作品(ピアノ曲)はそのままその人の「精神の糧」になる…ということだ。何となく分かる ♪

素晴らしい作品には何らかの「思想」が含まれていて、その作品を自分で再現する(弾く)ことは、その「思想」をたどることであり、「体得」することであると…。


それを、務川くんは「体得は知である」と表現していて、その「知」(精神の糧)は「のちにひとつの高度な哲学へと昇華し得る」とまで言っている。

プロのピアニストが音楽を極める中で「高度な哲学へと昇華」することはありそうだ。

私の好きなエマールさん(ピエール=ローラン・エマール)やアンデルシェフスキなどは「高度な哲学」を持った、あるいは追い求めているピアニストという感じもする ♪

ただ、私のような素人の下手なピアノの練習で、いずれ「哲学」に辿り着けるような「知」が得られるかどうかは、かなり怪しいとも思う…(^^;)。


そして、ピアノを弾く意味を「1冊の素晴らしい本」を読むことに例えている。

逆に言えば音楽をみずから"ひく"意義はそこにある。1つの曲を、指遣いを考えて考えて、覚えられなくって四苦八苦、何度も練習して、ようやく身体に入った5分間の楽曲。その5分間の価値というのは、例えば1冊の素晴らしい本から得ることのできる学びに何ら引けを取らぬ、その人の価値観に影響を与える可能性すら秘めたひとつの財産である


これは分かりやすい。ちょっと私の「腑に落ちた」感じがした ♪

文学作品では、テキストを読み、その思想などを理解し、色々な想像をしながら、自分なりの読み方をする。その読み方は作者の意図したものとは違っているかも知れないが…。

ピアノ作品を弾くとき、テキスト(楽譜)を読み、その意味(思想?)などを理解し、色々な想像をしながら、自分なりの弾き方をする。

いずれも、その作品から「精神の糧」を得るためには、自分の身体と頭脳と時間を使って、作者の思考を追体験する必要がある。


ここで、ちょっと考えたのは、音楽には「聴く」「鑑賞する」というやり方で音楽(の思考?)を追体験する方法もあるのでは?…ということ。

「聴く」ことで、演奏家よりも深く音楽を理解していたかもしれない、吉田秀和さんという偉大な音楽評論家もいたわけだし…。

ただ、私の個人的な(低次元の…(^^;)…)経験では、自分が練習した曲は、音楽鑑賞のレベルが上がる…聴いているときの解像度(細かさ)や深さが増すように思う。

これは、弾くことで得た何か(精神の糧?)があったということになるのでは?つまり、聴くだけでは得られない何かが、弾くことで得られるのではないかと思う。


これに関連して、務川くんは興味深いことを書いている。

では弾くことでようやく体感できる印象というものが存在するのならば聴衆と奏者は一生同じ感覚を共有できないのかーーーかなしいかな、僕はそうであると思う。聴き手と弾き手の間に大きな矛盾がいつも立ちはだかっている。『どうか何かを伝えよう』と悪戦苦闘し最後には強く"願う"のはそのためだ。演奏が容易で無いのは、そのためだ


「聴衆と奏者は一生同じ感覚を共有できない」…、音楽を聴くのが大好きで、演奏者が表現している価値あるものを最大限「感受」したいと思っている私にとって、ちょっとショッキングな言葉でもある。


でも、一方で「それは当然だろう…」とも思う。

奏者と聴衆の間にあるのは、演奏の結果の「音響」でしかない。

付け加えるとすれば、奏者が醸し出す雰囲気やオーラみたいなもの、そして聴いている環境(ホールなど)のから受ける印象などであろう。

知っている奏者の場合(私の場合?)、そのピアニストから感じられる「人間性」みたいなものもある…。私の一方的な感覚ですが…(^^;)。

ピアニストが奏でる「音響」は弾かれた瞬間にピアニストの手を離れ、その「音響」をどう受け止めるかは聴き手に委ねられる。「どう聴くか」「何を感じるか」「何を読み取るか」が聴き手側に問われることになる。

もちろん、心地よい音響に身を委ねるという自由も聴き手側にはある ♪


…と、ちょっと文章が入り乱れてきたかも…。務川くん以上に理屈っぽくて、分かりにくくなってきたかも知れないので、今日はこの辺で筆を置くことにしよう…(^^;)。

要は、一人でピアノを練習することも、読書と同じように意味あることである…ということが分かって嬉しい…ということを書きたかったのが今日の記事であります…(^^)?


おまけ。ワルシャワの秋の写真。記事冒頭の写真は、務川くんがワルシャワで写した写真の一枚。下記のツイートからお借りしたもの。このあとも、反田くんと一緒にワジェンキ公園を散策?する姿などあって、ワルシャワの秋を堪能している様子 ♪





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