どうやら、今回のショパン国際ピアノコンクールは、ショパンの音楽をめぐる「伝統 v.s. 新しさ」のせめぎ合いの場でもあったようだ。
「端正な演奏スタイル」と「より自由で個性的な演奏」とをどう評価するするのか? コンテスタントたちがその演奏により投げかけた多くの「問い」は、審査員たちを相当に悩ませたのではないだろうか?
結果的には「より自由で個性的な演奏」を聴かせてくれたピアニストたちが多く入賞して、大袈裟に言うと「新たなピアノ音楽の可能性」を感じさせてくれるコンクールになったと思う。個人的には、それがとても嬉しい ♪
コンクールの途中で、たまたま読んだ二人の専門家(下田幸二さん、青柳いづみこさん)の意見がとても参考になった。
今回のショパンコンクールは、いづみこさんの書いておられるとおり(↓)になったのではないだろうか?
「第18回コンクールは、単に技術や音楽性の勝負にとどまらず、ショパンをどう捉えるか、楽譜をどう読むか、あるいは楽譜を越えたものを視野に入れるか、という、審査員とコンテスタントをも巻き込んだ価値観の戦いになる」
それから、いつも読ませて戴いているブログに面白い記事があった。
✏️21世紀に求められるショパン(GARI♪ぴあ〜の)
審査員と入賞者とのトークで出た、審査員代表のコメントが紹介されている。
「21世紀にはどんなショパンが求められているのか?」
("What kind of Chopin do we have in the 21st century?")
「…もしショパンがいたら、彼はどちらを好むでしょうか。おそらく彼も伝統を守るより、新しい風を取り入れる方を選ぶのではないだろうかと。そして今後のショパンコンクールはより新しい解釈によりオープンになることでしょう」
実は私も、この議論を知って以来「ショパンが生きていてこのコンクールを聴いたらどう思うだろう?」ということをずっと考えていた。
そして、その結論は上の審査員代表のコメントとほとんど同じだった。
ショパン自身、その当時、それまでにない音楽を作ろうとしていただろうし、その作品はその時代の「現代曲」であり、「最新ヒットチャート」を目指していたのだと思う。
しかもほとんどが 10代・20代の作品である。ショパンの音楽は若者の音楽なのだ ♪
ショパンの生きた時代に FAZIOLI はない。そして、ショパンはドビュッシーやラフマニノフを知らない。
つまり、ショパンと現代に生きる我々との音楽環境や知識には差がある。おのずから、ショパンと我々の感性には違いがあるはずだ。
ショパンが今生きていたら、どんな音楽を作り、どんな演奏を良しとしたか?…そういう考え方で、ショパンの残したテキスト(楽譜)を解釈することはいいことだと思う。
「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」という松尾芭蕉の言葉は、ピアノ音楽の解釈や演奏にも当てはまるような気がする。
もう一つ、「ショパンの伝統」はショパンが作ったものではない…と思う。それは、のちのショパン研究と巨匠たちのピアノ演奏によって形作られたものである。
それはとても貴重で重要なものだが、墨守すべきものではない。なぜなら、音楽(演奏)はその時代時代に生きている人々とともにあるはずだから…。
ところで、「伝統 v.s. 新しさ」という視点は、実はそれほど重要だとは思っていない。その二つは相反するものではなく、融合すべきものだ。それと、「伝統」=「ショパンらしさ」?は、私にはよく分からない…というのが正直なところ…(^^;)。
私の音楽の聴き方は「面白い v.s. つまらない」である。伝統的な演奏にも、新しい演奏にも、面白い演奏とつまらない演奏があると思っている。
私の「面白い」はエンターテイメントのそれではない。それは、「もっと聴いていたい」と思える、無条件に「いいなぁ〜」と思える、心に直接届く何か「いいもの」を感じられる、何だかワクワクするような、そういう演奏に対する私の表現だ。語彙が貧弱…(^^;)。
何か「いいもの」というのは人によって違うのだと思うが、私の場合、ちょっと大袈裟に言うと、それは「真善美」だと考えている。
最後に、私の「耳タコ」と「演奏のリニューアル」について。
私はもともとショパンが大好きであった。ところが、たくさん聴きすぎたせいか、いつからかショパンの音楽に対して「耳タコ」状態を感じるようになった。
これは、もしかすると「ショパンらしい」演奏に対してだったかも知れない。素晴らしいと思う演奏(例えば Marie-Ange Nguci のスケルツォ)にも出会っているので…。
私のお気に入りピアニストの一人であるルカくん(リュカ・ドゥバルグ)が、チャイコフスキーコンクールで 4位になったあとのインタビューでいいことを言っている。
「パフォーマーとしてのあなたの役割、目的」を聞かれて、「interpreter として、膨大な数のピアノ・レパートリー、数千の傑作を持つこと」に責任があると答えている。
その(演奏の)「傑作」の例として、現代のモーツァルトの演奏を挙げている。それは「細心の心配りによってダイヤモンドのような輝きが一つ一つの音符に注がれ」ることにより、かつてないほどのレベルに達している…と。
一方で、「ショパンとリストの音楽については、我々は飽和点に達している」「何か新しいものを引き出すリニューアルが求められている」という見解を述べている。
この点は、このインタビューを読んだとき、とても共感・納得した部分だ。それ以来、ショパンの演奏の「リニューアル」を心待ちにしている。
そして、その「リニューアル」のいくつかを、今回のショパンコンクールで聴かせてもらえたと思っている。それは本当に嬉しい感動だった ♪
「新たなピアノ音楽の可能性」さえ感じさせてくれたピアニストたちに、改めて心から感謝したいと思う…(^^)♪
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2 件のコメント:
ぴあさん、素晴らしい考察に拍手喝采です👏👏👏。あまりに良く書かれていて、何度か読み直してしまいました。芭蕉の言葉を引き合いに出されているところも、すごく知的。偉人の言うことは年月が経っても説得力がありますね。そして今回の荒れていた審査状況にしっくりきますね。いつの時代も古い人間は若い世代の変化を受け入れようとせず、古いものが正しいというような傾向があり、人はそれを繰り返して。でも古い人間もみんな昔は若い世代だったわけで。今回の審査員の変化も勇気ある決断だったのかもしれないと。そして今この時期にその変化の過渡期を迎え、過去に先駆者となったピアニストたちはその時に認められず涙を飲んだケースも多々あり、運もかなり左右するものなんですね。今回これだけたくさんのコンペティターが、おそらく高く評価されないかもしれないというリスクを覚悟の上で、彼らなりのショパンを届けてくれて、過去にはそういう勇者は1人くらいしかいなかったところが、今年は複数になり、時代の流れ、求められているものが変わってきているということを受け入れざるを得なくなったのかも知れません。私の拙いブログ引用してくださってありがとうございました。恐縮です。長文失礼しました。
Gari さん、おはようございます ♪
お褒め頂き、こちらこそ恐縮しております…(^^;)。
コンクールの最中から何だかモヤモヤしている部分もあり、頭の中にあった色んな思いのカケラを拾い集めたような記事なので、こういう感想をいただくと本当に嬉しいです…(^^)♪
ブログ、勝手に引用させて戴きました。ついでで何ですが、「ショパコン鑑賞記まとめ」の記事も面白く読ませて戴きました。音楽や芸術にとって、本当に「順位なんてどうでもいい」と思います ♪
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