出典:「之を楽しむ者に如かず」(吉田秀和、新潮社、2009)
(数字は引用部分のページ番号、赤字は私のマーク、→のあとは私のコメント)
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演奏はいずれとり上げた曲の楽譜を基に音におきかえられてゆくには違いないが、その読み方はさまざまだ。それに何事によらず、書かれたものは、書かれていないものを読む力との相関で、意味をもってくる。
→前後の文から、筆者の考え方を図式化すると…
・作曲家は意図したものをすべて楽譜で表現できるわけではない
・音楽は楽譜を基に演奏家の「解釈」「演奏力」によって音になる
・解釈=楽譜を読む力+書かれていないものを読む力
・音は生まれた瞬間に消えていく、まったく同じ音・音楽はない
33
テンポを遅くひく場合には、普通は概して音楽のエモーショナルな側面の表現に力点がおかれやすいものだ。…ものものしい、重く深刻な…。ただ、そういう中でも、「見せかけの重々しさ」と本当に心の中から生まれてくる「重々しさ」との違いはある…
→テンポ(遅い・速い)には理由がある。見せかけと本物は聴き分けることができるのだろうか?
61
イン・テンポで刻み、一瞬のゆるみもたゆみもない整然たる足取りとはいっても、そこには、やっぱり音楽をたえず前へ進めてゆく力強い推進力の精妙な変化がある。テンポの、そうして、ダイナミズム(強弱)の上での細かな変化。息使い。
→「音楽の推進力」をどうやって得ることができるのか、が課題。
65
近ごろ、演奏をきいていて、単に楽譜に書いてあるものを正確に表現しているようなもの、非の打ちどころのない整った演奏をきいていると、「何か」が満たされないのである。…
…モーツァルトでいえば、一つの永遠に変わらぬモーツァルトが本当にいるのか? そうではなくて、モーツァルトは常に創造的に変わっているのではないか、ということなのだ。
…ただ、私は同じもののくりかえしに耐えられなくなってきたのだ。音楽は、そういうものじゃないと思う。
→一つの固定的な理想的な音楽があるのではない。常に変わり続けるもの、それが音楽である。ただし、その変化は何かを目指しているはず。
74
音楽が常に同じでない以上、その演奏が常に同じ基準で評価されるべきではない、…。
演奏(とその基準)はいつも同じというのが、そもそもおかしい。演奏は、むしろ、いつも変わっていておかしくないのだ。
→これを書いたとき吉田秀和さんは93歳以上のはず。柔軟な頭(感性)に驚く。音楽の持つ「生命力」は「創造的な変化」にある、ということか…。
90
徒然草からの引用で続けるとすれば、…
「折節の移り変はるこそ、ものごとにあはれ」…
「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは…」
…
演奏家にしたって、同じ人を、最盛期だけでなく、いろんな時々にきくというのも悪くない。いや、それは重要なことで、そこにはなかなか味わい深い趣きがあるのである。
→味わうべき言葉だと思う。「徒然草」、一度きちんと読んでみるか…。