出典:「之を楽しむ者に如かず」(吉田秀和、新潮社、2009)
(数字は引用部分のページ番号、赤字は私のマーク、→のあとは私のコメント)
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最近のヨーロッパのオーケストラ、それから指揮者たちが、あちこちで変なことをやったり、きいていてがっかりするようなことをやったりしていることの多いのを思い出した。昔のような「完璧な」とか「重厚な」とか、そういったきいていて頭が下がるような、あるいは手に汗を握るような感銘を与えるものが、だんだん少なくなってきている一方で、かつて味わったことのない、なんともいえぬ面白味のある演奏にぶつかることがある。
…一方で、むやみやたらと上手な演奏に出会うことも少なくない。
→昔の方が良かったと言っているわけでもなさそうだ。現代の聴衆が「模範型の手落ちのない演奏に退屈してきたのではないか」とも言っている。現代の「いい演奏」というのは、「ちょっと変わった面白味のある演奏」か「オリンピックの前人未到のような、むやみやたらと上手な演奏」しかないということか…?
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(矢代秋雄の音楽について)とうとう、こういう音楽を書く人が、日本からも出てきた。柔らかな感性に基づく豊かな響きと、それからガッチリした論理による構成とを兼ね備えた音楽作品を書く人が…
…矢代が結局はアカデミックな作風の音楽家に終始した…
…
矢代と並べて、デュティユーの音楽をきいていると、この人の背後には、長い間のフランス音楽の伝統の積み重ねがあるということがひしひしと伝わってくる…。
→伝統の差。偉大な作曲家が出てくるためには、個人の資質とともに伝統の積み重ねが重要ということだろう。伝統の中には、音楽だけではなく、言葉、舞踊、文化、歴史、生活習慣など様々なことが含まれると思われる。
→矢代秋雄とデュティユー、2人とも以前から興味はあるのだが、らきちんと聴いたことがない。《ピアノのためのソナタ》(矢代、デュティユー)や《三つのプレリュード》(デュティユー)などの具体的な作品名があがっているので、聴いてみようと思う。
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(宮本文昭のオーボエについて)彼は聴衆に強く訴えかけ、そこから生まれる効果を敏感にとらえ、それに即座に反応する。その演奏ぶりが、また聴き手への呼びかけを一段と活発なものにしていく…。
→聴き手の立場からすると、こういうその場のフィードバックというか、演奏者との音楽を通したコミュニケーションを楽しむことも、生演奏を聴く愉しみの重要な部分であろう。
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「歴史とは今と昔の対話である」(E.H.カー『歴史とは何か』より)…
クラシック音楽を演奏するとは、歴史を書くようなものではないか。
…
「歴史は私たちが見る過去の姿だ」というのではなくて、昔と今との「対話」だ…
(オペラの)演出家の中には、あんまり「過去の声」をきくのを好まず、自分の言いたいことばかり声高に主張する人もいる。…
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「昔と今の対話」としてのクラシック音楽の演奏。
→クラシック音楽を単なる「古典芸能」にすることなく、現代に生き未来につながる「芸術活動」にするには「昔と今の対話」が重要なキーワードになるような気がする。