出典:「之を楽しむ者に如かず」(吉田秀和、新潮社、2009)
(数字は引用部分のページ番号、赤字は私のマーク、→のあとは私のコメント)
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322
内田光子がピエール・ブーレーズ指揮のクリーヴランド管弦楽団と組んで入れたシェーンベルクの《ピアノ協奏曲》作品42。これは、最近のシェーンベルクのCDの中でも最も注目すべきものだった。…ここでは、シェーンベルクがまず幾つもの音から構築された一つの集団(…「楽段」…)を設定した上で、それを幾度となく重ねながら、音楽を展開してゆく手法をとっているように聞こえてくる。…ベートーヴェンの曲でもきいた時みたいなわかりやすく、がっちりした音楽的立ち上がりと前進の姿に接しているような気がする。
→シェーンベルクは苦手である。でも、吉田秀和さんがここまで仰るなら、いちど聴いてみるとするか…。「ベートーヴェンの曲でもきいた時みたいな…」というところが頼りである。
→CD:『シェーンベルク:ピアノ協奏曲』
342
…彼(グルダ)のモーツァルトも、とてもとても、よかった。
…
彼のモーツァルトをきいていると、私の実際に体験した20世紀のウィーン流のモーツァルトの一つの基本的な在り方が力強く示されているのが感じられてくるのである。…リズムとダイナミックの扱いによく出ているのだが、曲の中で微妙にきく人の心に訴えてくる最も肝腎な個所を弱音でひく、その時の音の美しさ、表情の微妙さ、それからリズムの精緻さとでもいったことに、いちばんよく観察されるのである。
→「肝腎な個所を弱音で…」というのは、テクニックとしてはあると思うが、たぶんその前後のもって行き方とか、その「弱音」の質が問題だと思われる。決して「弱い音」であってはならず、芯のある美しく響く音でないと「心に訴える」のは難しいだろう。
345
(上記の続き)
曲の核心ともいうべき大事な旋律 −− そういう個所は f でなく、むしろ p でひく。それが音楽のきき手の心に訴える力の急所といってもいいような個所であればあるほど、音は少なく、表情は外に向かって大声で叫ぶのとは逆に、小声の内向的で、しかし内容の濃い、密度の高い出来事として現わされる。
それがモーツァルトの音楽なのである。特にウィーンの音楽家たちのモーツァルトは、そうひいた。グルダはその典型的ピアニストだった。
→そうなんだ…。
359
…『パリ左岸のピアノ工房』(T.E.カーハート著…。これはピアノをめぐる実におもしろい本で、ピアノが好きな人には是非読んでみることをおすすめする)を読んでいたら、その中に、《平均律クラヴィーア曲集》の一曲をひいてみるシーンがあり…、ランドフスカがテューレックのひくバッハをきいて、「あなた方はあなた方の流儀でバッハをひくがいい。私はバッハの流儀でバッハをひく」といったエピソードが…。
→『パリ左岸のピアノ工房』、読んでみるとするか…。
しかし、ランドフスカという人、相当な自信家・皮肉屋のようだ。「バッハの流儀で」とは「私のひくバッハこそ真正バッハ」と言っているようなものだ。
371
いつか、ベンジャミン・ブリテンの無伴奏チェロ組曲をゆっくりききたいと考えていた。…今度、ピーテル・ウィスペルウェイ(Pieter Wispelwey)が三曲全部入れたCDが手に入ったので、さっそくきいてみた。…
→無伴奏チェロというと、J.S.バッハの六曲しか知らなかった。他にも、コダーイの大曲「チェロ・ソナタ」(シュタルケルの名演)があるらしい。
378
二十世紀音楽と一口に呼ばれる時、その全体としてのイメージが多くの人にとって、そんなに親しみやすく、近づきやすいものとなっていないのは、二十世紀音楽そのものの性格というだけにとどまらず、二十世紀という時代そのものの性質に深く関係しているということを、見逃してはいけないという結論になるのではあるまいか。
→上のブリテンから始まって、ヴェーベルン、ショスタコーヴィチ、プーランクときて、その音楽が概して暗く、重いことを述べた後の言葉である。「自分の世紀がさまざまの破壊と苦悩で満たされたものであったことの証言」としての音楽、という表現も出てくる。
→そう考えると、これから出てくる21世紀の音楽にもあまり期待できないのだろうか?
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→読書メモ「之を楽しむ者に如かず」1
→読書メモ「之を楽しむ者に如かず」2
→読書メモ「之を楽しむ者に如かず」3
→読書メモ「之を楽しむ者に如かず」4
→読書メモ:作曲家・曲・演奏家編1