「いい音楽」とは何か、「いい演奏」とは何かということを、ずっと(ときおり)考え続けている。その全体像はなかなかつかめないのだが、いくつかの側面が垣間見えたりすることもある。
これまでに書いたいくつかをご紹介しておく。
で、今日の記事は『楽譜を読むチカラ』という本の感想文その3とも言えるのだが、「いい演奏」を考える上でのヒント・材料になりそうなことを3つほど書いておきたい。
「いい演説」のような演奏
昨日の記事(感想文その2)でも少し触れたが、音楽の演奏というのは言葉による演説や朗読によく似ていると思う。
「いい演説」では、その時その時の短い時間で語られる内容に惹きつけられる魅力があると同時に、話全体の構成や内容のつながりも分かりやすく説得力がある。そして聞き終わったときに感動したり思わず拍手をしたくなるものだ。
「いい演奏」にも同じようなことが当てはまると思う。フレーズや音色の美しさや魅力とともに、曲の流れに説得力や、次への期待が高まるような展開力があって、全体を聴き終わったときにそのすべてが「よかった ♪」と思えるわけだ。
「演奏者に求められることは、この筋道を意識することでしょう。これによって聴者は素晴らしい演説を聞いたときのように、ひとつひとつの音ではなくむしろ全体でわかったと感じるでしょう。こうして音楽の共感とも呼べるような精神的そして感情的な経験が生まれるのです。」
「演奏には演説と似たような要素があります。主張、問いかけ、証明、まとめなどです。」
なぜそのように書かれているか?が分かる演奏
「楽譜通りに弾く」という表現にはよくお目にかかる。でも、その意味するところが文字どおりだとすると、ちょっと違和感がある。
楽譜は、作曲家が書きたかった音楽を、制約のある記譜法で表現できる範囲で書いた「基本設計図」のようなものだからだ。そこから、どれだけのものを引き出して「音楽」にするかが演奏家の腕の見せどころなのだと思う。
なので、この本に書かれている次のような箇所は「そうかも知れない」と思った。
「『書かれてある通りに』演奏するのではなく、なぜそのように書かれてあるのかが、人が聴いてわかるように演奏することが大切である…」
「演奏というのは音楽のしくみを聴こえるようにすることです。作曲家はどうしてこのように書いたのかを示すことです。従って説得力のある演奏というのは、いつもふたつの要素で成り立っています。ひとつめは作曲家の書いた通りに演奏するだけ…、さらには…自分なりに解釈すること…。」
なぜ「ナルホド」とまで思わないかは「なぜそのように書かれてあるのかが、人が聴いてわかるよう」な演奏が、実際にどんなものなのか直感的に想像できないから…。
身体の動きによる感情表現
演奏中のピアニストの動きは、良くも悪くも気になるものだ。美しい音楽的な?動きがあるかと思えば、何とも興ざめなわざとらしい仕草もある。
身体の動きに関しては、次のようなことが書いてある。
「どんな動きも感情を表現します。この意味で動きは感情表現であると言えます。」
「曲の中に新しい要素を発見すれば、身体感覚も新しくなります。音楽的に成長することは、同時に身体感覚の成長でもあるのです。」
「音楽のイメージでもって動きがコントロールできればしめたものです。」
どれもナルホドと思えるものである。そして…
「反対に何か特別な態度や動きをやっつけでしてみたり、格好をつけたりして、音楽の歪んだイメージを演奏に移してしまいますと、その人らしさも表れませんし、演奏者としてのモラルも問われてしまいます。」
という箇所を読んだときには、何人かのピアニストが思い浮かんで思わず苦笑してしまった…(^^;)。
【参考記事】
おまけ:「読書メモ」(抜き書き)へのリンク集。
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《『楽譜を読むチカラ』チェロ奏者からピアノ練習のヒント ♪》
《『楽譜を読むチカラ』からピアノ練習のヒント♪その2》
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