2015年11月28日土曜日

いいピアノ演奏の条件?「音楽」を奏でるために…

浜松国際ピアノコンクールを聴きながら、いいなぁと思う演奏と、そうは思えない演奏の違いをつらつら考えていた。

「いいピアノ演奏とは?」というのは、ピアノを弾き始めて以来考えているテーマであるが、今年はコンクールがたくさんあったので、そのたびに何らかの発見があった。今回もいくつかメモしておきたい。


「大きな曲は全体の構成力が必要」という話を読んだことがある。例えば、バラードは叙事詩なのでエッセイやショートストーリーの集まりではなく、全体の構成が重要になる、といった話。

→参考:《ショパンコンクール:審査員はここを見ている》


今回感じたのは、もっと短い単位、例えばフレーズとか、もっと極端に言えば小節単位で、つながらない演奏というのも存在するということ。そうすると、どんなにそのフレーズをいい音色で上手に弾いても、音楽が流れていかないので、聴いている方としてはちっとも面白くない。

音楽のムーヴメントというか、ドライヴ感・方向性みたいなものが感じられず、聴き手はどこに連れて行かれるか分からず気持ちが乗って行かない、落ち着かない、という感じになる。


それから、いつも気になっている「音楽が聴こえてくる」かどうかなのだが、少し中身が分かったような気がした。

聴こえてくる「音楽」というは物理的な音だけで構成されるわけではないのではないか、ということ。「歌の翼に乗せて」ではないが、現象的な音(音響)の上に「音楽」が乗って、物理的な制約を超えて軽やかに、聴く者に伝わってくる・響いてくる、ということなのではないだろうか?

ではその中身は何か?ということになると説明が難しいのだが…。たとえば、いくつかの要素をあげることはできるかもしれない。

まず基本的(技術的)な話としては…。たくさんの音で構成されるフレーズの中には「旋律」が仕込まれていることが多いが、その旋律が音の塊の中でちょうどよいバランスで際立っているかどうかである。旋律は音符に書かれていることもあるが、音の塊のうねりのような形になっていることもある。


その次に分かりやすいのが、フレーズの終わり方と始まり方(つなげ方)である。

いい演奏では、フレーズの終わりで音楽が途切れず、余韻が感じられる。余韻は実際の残響の場合もあるし、音は残っていなくても気持ちが持続している場合もある。その先には休符をどう表現するか(聴き手に何を感じさせるか)、ということがありそうだ。

その前に、フレーズ自体をいかに表情豊かに弾くか、という問題がありそうだが、その中身はよく分からない。

ダメなのはタイプライターを叩くような弾き方だとは思うのだが、じゃあ音楽的な弾き方は、となるとたぶん一言では説明できそうもない。少なくとも、表現したいことがあって表現する意思があることが前提だろうとは思うが…。


もう一つ、説明はできないのだが、「心に届く音」とでもいうような感覚を持った。聴き手に伝わってくる音と、伝わってこない音とがありそうなのだ。

小さな音でも、しっかり響いていて聴く者の心にまで届く音もあれば、いくら大きくても、音は確かに鳴っているのだがただそれだけ、という音もある。「音響」以上のものが伝わっているのではないかと感じるのだ。

技術的にはタッチとか音色のパレットとかアーティキュレーションの話なのだろうが、何か技術だけでは説明できないものも感じる。面白くない演奏では、このピアニスト、何かを表現しようとしているのだろうか?この曲を本当に弾きたいと思っているのか?という疑問を感じるのだ。


最後に「繰り返し」について。最近、シューベルトを練習していて、繰り返しの弾き方に少し悩んでいるせいもあるが、とくにハイドンのソナタで繰り返しが気になった。

繰り返しのフレーズが出てきたとき、そのフレーズの進化・成長のようなものを感じたり、再会が嬉しかったりする場合と、またか!と感じる場合があるのだ。

技術的には、同じフレーズを繰り返す場合、同じ弾き方をしないということかもしれないが、何かそれ以上のものを感じさせてくれるときがある。それを「進化・成長」と言ってみたのだが、大きな音楽の流れの構成のようなものかもしれない。つまり、音楽の流れの中で必然性のある繰り返しになっている、ということだ。


おまけ。「いい演奏」かどうかとは関係ないかもしれないが、自分の弾いている音(音楽)に耳を傾けながら弾いている印象を受けるピアニストと、そうでないピアニストがいるように思った。

後者は、自分の仕事は鍵盤を叩くまで、あとは勝手にピアノが鳴るだけ?とは思っていないと思うが、少なくともあまり印象は良くない…。




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