第1部「アーティキュレイション」
アーティキュレイション 第 Ⅳ 章(続き)
複数の「関係」へ
>たとえ音高だけをパラメータとして音列を構成したとしても、そこには「音→核音との関係によるグルーピング」以外のものも成立してしまう。音が並ぶだけで「音→動機」系列のグルーピングができるし、拍の長さを一定にしても音高の高低関係からアクセントが生まれ「リズム」としてのグルーピングが発生する。
>これらのグルーピングについても、「音→核音との関係によるグルーピング」同様、「関係」の移ろいが実現されるように音の列なりを操作する必要があるだろう。
>ここまでで、聴き手の聴覚的なグルーピング作業に支えられる、どこまでも持続する一本の音の列なり(→『線』の音楽)としての音楽の基礎的な様態が明らかになった。
>この一本の線には、すでに3種類(音→核音、音→動機、リズム)の「関係」が含まれる。これにもう一つパート間の関係を加えれば、ゲームはより多層的になる。聴き手は、いくつかの「関係」を同時に聴いたり、異なった系列の「関係」を渡り歩くこともできる。そしてそれは聴くたびに変わりうるものである。
より複雑な『線の音楽』の探求
>『線の音楽』の基本的な方法は、持続を設定すること、その上での様々な「関係」の存在と移ろいの可能性を潜在的に準備すること、であった。
>『オリエント・オリエンテーション』は、この方法による最も単純なものに属する。この作品は、より複雑な『線の音楽』を探求するというさらなる課題を、私に与えた。
>「複雑な」とは、パラメータの固定やあからさまな規則性に頼らずに持続を作る方法、多くのパラメータが「関係」の成立に関わり、より複雑な高次構造が可能になるような方法、それによってきわめて多層的な「関係」構造を実現し、その「関係」(=「音楽」)を聴く聴き手の行為(経験)を豊かにすること、などである。
音楽が変わることはその「聴き方」が変わること
>外聴覚的音楽(自然の中で勝手に鳴っている音)と偶然性の音楽を除けば、従来の聴き手は、作曲家または演奏家によって確定された「分節=連接」様態を認識し、受け容れる立場にあった。そこでの音楽とは、作曲家・演奏家から発せられる「目的的持続」を受け取り、それを作曲家・演奏家の表現として聴くことである。
>しかし『線の音楽』は、作曲家・演奏家の表現ではない。私(作曲家)は、グルーピングを聴き出すことが可能なように、しかし特定のグルーピングの安定した確立を妨げるように音を決定したのであって、「連接」様態のすべてを確定したわけではない。
>ここには私の作った「持続」はあるが、その持続をどう辿るかは聴き手に委ねられる。聴き手は単なる受け手ではなく、自ら「聴く」行為によって音の列なりを音楽化しなければならない。音楽が変わることは、その「聴き方」が変わることでもある。
新たな音楽に見る夢
>この新しい音楽は、人を訪れる現実とその現実を捉える人の認識との、静かな潮汐運動のようなせめぎ合いである。現実の中で人が、経験知によって知覚できるものだけを「自然」と捉えるように、立ち現れてくる音の内に「音楽」を聴き出すこと。ここでの「現実」は仕組まれた音ではあるが、そこに「音楽」を見いだす耳は、「自然」を見いだす身体のように、人の心を深く安めることができるかも知れない…。これが、私がこの新たな音楽の中に見た夢であった。
〔完〕