これまでにも何度か考えてみたが、いまだによく分からないのが「曲の仕上がり具合」の判断である。とくに私のような独習者の場合は、自分以外に「判断する人」がいないのでとても難しい悩みになる。
基本的には、趣味のピアノなので楽しめればいいと思っている。なので「仕上がり具合」の判断も「自己満足」でいいと、一応は割り切っている。それでも、もう少し自分でも納得できる判断基準が欲しいと思うのである。
■ これまでに考えたこと
まず、過去のブログ記事から、これまでに考えたことを振り返ってみる。
去年の9月に書いた記事だが、ここでは、「『自分の今の実力ではこれが限界(かな~)』という感覚」をもとに、「現時点の実力で到達できるレベルを『とりあえず』の仕上がりと思うことにした」と書いている。
少なくとも「音符」どおりに間違えずに弾けているかをチェックするために、録音してミスや止まった回数をカウントする、というのをやってみた。これは今でもときどきやっているのだが、仕上がりのチェックというより、途中で止まるクセを直すためである。
これも「音符」どおりに間違えずに弾けているかを、全体の小節数の何%が弾けるようになったかという数字を記録してみようという試みであった。これは実際にはあまりうまくいかなかった。
■ 考えを整理してみる
「曲が仕上がる」ということは次の3つのことを満たしていることである、と言えるのではないだろうか。
①ちゃんと弾けること(事実として)
②自分の思うように弾けること(主観)
③自分の思うような演奏になっていること(客観)
①は楽譜どおりに(細かい表現はさておき)間違えずに弾けること。②は自分自身の気分や感情を表現できていると、弾きながら実感できること。③はその実感が、他人が聴いたときにも同じように感じてもらえること、つまり表現したいことが伝わっていること、である。
①は自分でも分かる。録音して聴いてみればさらによく分かる。②は自分の感覚を信じるしかないし、基本的には「自己満足」できればよしとするしかない。問題は③である。とくに独習者にとっては、なかなか難しい。人に聴いてもらって感想をきくという手もあるが…(あまり気が進まない)。
なので、「自己満足」の延長にはなるのだが、録音したものを自分で聴いてみて、弾きながら感じるものと近いものが感じられればOKという判断しかないのかもしれない。
ところで、先生についてレッスンを受けている場合、②というのはどの程度意識されているのだろう。また③の代わりに、先生の思う演奏になっているかどうか、を先生が判断する、という構図になっているような気もする。先生に仕上がり具合を判断してもらえる、というのは羨ましいことだが、「自分のイメージする演奏」を分かってもらうのは難しいのかもしれない。
■ 「練習」という観点
「練習」あるいは「進歩」という観点からみると、また少し違った考え方もあると思われる。《曲の「仕上がり」を見極める?》の記事から引用した、「今の実力での限界」という考え方である。
曲を練習することには、その曲を仕上げて弾けるようにすることと、その曲を練習することにより技量をあげること、という二つの目的があると思われる。本当は前者を大事にしたいのだが、「ピアノがうまくなりたい」という気持ちは後者につながっている。
その曲でやるべき「課題」をクリアできればそれで終わったことにする、という考え方もあるのかもしれない。
■ とりあえずの結論?
といろいろ考えてみて、さてどうするか?ということであるが…。
いま一番こだわりたいと思っているのは、どうも「自分の思うように弾けること」であるような気がしている。間違えずに通して弾けることはその前提として頑張るとしても、少しぐらい間違えても自分が思うように弾けていることを実感できることを重視したい、と思う。
それと現実問題としては、今の実力での限界はなかなか越えられないので、そこはある程度「大目に見る?」「限界に達したと感じたら潔く?次の曲に移る」ことも必要だと思う。進歩を楽しむのも楽しみ方の一つなのである。
ということで、なかなか悩みは解消されていないのだが、当面はこういう考え方で、楽しみながらやってみようと思う。(しつこくやっている「アラベスク」はなかなか「仕上がり」が見えないという現実の悩みも抱えつつ…)
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