ところが、「現代音楽」というのはかなりとっつきにくい。なぜか妙に深刻ぶっていて、人を驚かすような音を多用して、聴いていてあまり気持ちよくならない(ものが多いと思う)。
音楽というのは、やはり聴いて楽しむもののはずだから、嫌な気持ちにはなりたくないのだ。
ただ、慣れという問題もあって、何度も聴いているうちに耳に馴染んできて、とっつきにくかった音楽が「お気に入り」の音楽になっていくということもあると思う。
モーツァルトの時代の音楽愛好家がドビュッシーを聴いたら、びっくりして拒否反応を起こすに違いない。現代の我々がドビュッシーの曲をいいなぁと思うのは、聴きなれているという要素もあると思われる。
…ということもあり、1ヵ月ほど前から、現代ピアノ曲を少しYouTubeで聴いて、比較的気に入ったものを「収集」することを始めた。どういう曲があるのか探索することと、自分自身の耳を現代音楽に馴染ませるということが目的である。
一方、いまドビュッシーの曲を練習していることもあり、『ドビュッシー:前奏曲集第1巻&第2巻』のCDをじっくり聴き始めた。そこで、少し感じたことがある。
当然といえば当然なのだが、ドビュッシーの音楽はかなり「現代音楽」に近いところがある。たとえば、前奏曲集第2巻の最後の曲「花火」などは、とくにその出だしは、私には「現代音楽」に聴こえたのだ。そして、それを聴いたあとで、現代ピアノ曲、例えば西村朗の「カラヴィンカ」を聴いてみると、まったく違和感がない。
昨日の《ドビュッシー「プレリュード集」について》でも書いたように、少しドビュッシーの曲を聴いてみようと思っているが、現代音楽への「橋渡し」としての「近現代」といわれる音楽家の曲も少し聴いてみようと思った次第である。
とりあえずは、ドビュッシー、ラヴェル、スクリャービン、プロコフィエフ、ラフマニノフあたりをちゃんと聴いてみようと思う。このあたりの音楽を聴きなれたあと「現代ピアノ曲」がどう聴こえるのかが楽しみである。
それにしても「近現代」という区分はよく分からない。ふつうは「近代」→「現代」と分けるのではないのか? 「現代音楽」という言葉も「現代の音楽」というよりは、少し特殊な使い方をされているような気がする。
このあたりを誰かすっきりと説明してくれると嬉しいのだが。ちなみに、Wikiでも、「近代音楽」と「近現代音楽の作曲家一覧」と「現代音楽」という項目がある。
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《ドビュッシー「プレリュード集」について》
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