2014年6月25日水曜日

「音楽と社会」:ベートーヴェンに学ぶ音楽と生活

読書メモ: 『バレンボイム/サイード 音楽と社会』

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[6] 2000.12.14 ニューヨークでの対談(p.187~229)から
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■ ベートーヴェンを理解する


バレンボイムは、現代の世の中に音楽教育がほとんど存在しないことを嘆く。真剣に学べば多くのものを得られるはずの音楽、とくにベートーヴェンの音楽を人々がもっと知るべきだと、次のように語る。

「人々はベートーヴェンの交響曲がどんなものかをほんとうに知らない。…こういう作品の実際の人間的な価値や途方もない力は、ベートーヴェンの持っていた知性と身体の力をすべて吹き込まれていることにあると思う。」

そして、その素晴らしさの源泉の一つが、人間の存在に対する「肯定」であると言う。

「ベートーヴェンの音楽、とくにこの素晴らしい『合唱付き』交響曲が表現しているのは、ある種の肯定につきると思う。」
「人間の社会的肯定、人間の存在について僕らが肯定的に語りたいようなことのすべてが、明示的ではないが、そこにつめ込まれていると言えよう。」

司会者であるグゼリミアンは、ベートーヴェンのような音楽が少なくなった背景として、音楽が表現するものが、しだいに「プライヴェート」なものへと変化したことをあげている。

「音楽は一種の社会的な表明から哲学的な理想の表明へと移行し、…非常にプライヴェートな状態へと変化した。」

■ 生活のあり方としての音楽と生活手段としての音楽


ベートーヴェンの時代、プロのオーケストラ奏者は存在しなかった。それが、現代では良くも悪くも「専門化」「職業化」してしまい、単なる生活手段としての音楽や演奏が多くなっている。

「多くの音楽家が自分たちのしていることを自分の専門分野と考えている。そのため、彼らにとってそれは倫理的な領域に存在するものではなく、生活手段となっている。」

「倫理的」という言葉はすこし難しいと思うが、音楽そのものを追求する、音楽や演奏をより高めるためにさまざまな努力を行うことだと思われる。「専門化」により、よりレベルの高い音楽が作られ演奏されることは、聴き手にとってもありがたいことではある。しかし一方で、「生活手段としての音楽」や「金儲け主義の商業化」により音楽が劣化していることも事実ではないだろうか。

そういえば「佐村河内事件」はどうなったのだろう? これこそまさに「倫理」の問題である。

バレンボイムは、「生活のあり方としての音楽」を実践しているオーケストラとして、ベルリン国立歌劇場管弦楽団について語っている。

「(ベルリン国立歌劇場管弦楽団は)自然な流儀として、音楽に対して畏怖の念と行動的な勇気がないまざった感覚をもっている。」

「彼らのひとりひとりに、自分たちの分担からではなく、譜面全体から演奏することを可能にさせる。これによって、彼らは…自分たちが出しているその音が、その瞬間において、実際に何を意味しているかということを、完全かつ意識的に認識している。その音の位置はどこなのか、その音の和音における位置は何なのか、垂直的および水平的な位置は何なのかということ。これは音楽創造においてはとても重要な要素だ。」

これは指揮者でないと分からないことなのか、音楽を聴くことでも分かることなのか、個人的にはそのあたりに興味がある。

■ 民族のアイデンティティと音楽の普遍性


以前、「日本人に西洋音楽は理解・演奏できるのか」という問いを投げかけた本を読んだことがある。それに対する、一つの答えをバレンボイムとサイードは語っていると思う。

「今日の世界では、僕らに与えられている選択は、一種のグローバリゼーションか ― 誰もが同じであり、誰もが同じ音を出す ― さもなければファシスト的な、ナショナルな固有の価値を維持するかどちらかだ。だがこれは両方とも間違っている。」

「ドイツ風のサウンドの素晴らしさは、…それが誰にとっても理解でき、感じられ、表現できるところにある。」

「これの最善の証明は、こういう音楽が存在しない国々が…多くの素晴らしい音楽家を輩出していること」だとして、インドのズビン・メータや日本出身の多数の素晴らしい音楽家たち(たぶん小澤征爾や内田光子など)をあげている。

つまり、どこの国の人間であっても西洋音楽は理解できるし演奏できる。といって、それは誰がやっても同じ音を出すことではなく、例えば、日本の一個人がドイツ音楽をドイツ音楽として理解し表現することである。

サイードは、民族のアイデンティティに対する考え方について次のように語る。

「ドイツ人やフランス人のアイデンティティというものは存在する。しかし、それは純粋なものではなく、さまざまな要素を寄せ集めてできあがっている。」
「問題は、そこに『他と違うだけではなく、勝っている』と付け加えることだ。」

今まさに世界中で起こっている戦争や紛争の原因の一つは、アイデンティティに対するはき違えた理解によるものであろう。

■ 音楽と実生活はパラレル


最後にベートーヴェンにもどって、サイードは次のように言う。

「ベートーヴェンには永続的で理性的な信仰によって支えられているところを感じる。…そこには人間性に対する信仰がある。…明らかにこのために、人々は彼に回帰し続けるのだと思う。」

回帰し続けなければいけないのだと、私は思う。「理性的な信仰」という言葉がいい。

バレンボイムは、たぶんベートーヴェンを想定しながら、音楽と実生活のパラレル性について次のように対談を締めくくっている。

「審美的な経験のいちばん素晴らしいところは、とくに音楽については、一つのものから別のものに移ることだと思う。とがったものから角のないものへと移行し、男性的なものから女性的なものへ、『英雄的』から『叙情的』へと、さまざまに移行する。そしてある意味では、それを受け容れていくのを学ぶことは、人生の流動性を受け容れていくのを学ぶことだ。その点では実生活のパラレルだ。」


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