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『ドイツ人、ユダヤ人、音楽』(バレンボイム)
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■ アイデンティティ
現在、バレンボイムはドイツに暮らしている。かつてユダヤ人を虐げた歴史を持つ国に暮らすことについて、どう思うか聞かれることが多いようだ。彼の考え方ははっきりしている。と同時に、「アイデンティティ」そのものに対しても疑問を投げかける。
「わたしは集団としての罪というものは信じておらず、ましてやこれほど世代を重ねた後では、いっそうその感を強くしている。だからわたしには、ドイツで暮らし、ドイツで働くことになんの問題もない。」
「アイデンティティというものは、何によって成立しているかという一般的な問題…」
「ひとりの人間や、一つの民には、ほんとうに一つのアイデンティティしかないのだろうか。」
バレンボイムは、「ドイツ人全体」という「集団」としての罪などは存在しないと考えているのであろう。例えば日本で言えば、「従軍慰安婦問題」ということに関して、「日本人全体」あるいは「日本人の全員」に罪を問うことが可能か、という問題と同じであろう。
そこから、「アイデンティティ」の実体は一体、何によって形作られているのだろうかという根本問題に言及する。さらに、みんな、個人であれ「民族」であれ、ほんとうにアイデンティティは一つか、という非常にまっとうな疑問を呈している。「そんなわけはないだろう」とも言いたげである。
そして、
「21世紀のはじめにおいて、一つのアイデンティティを説得力のあるかたちで主張することは、もはや誰にとっても不可能なことだ。」
と切り捨てる。明快である。
■ 異なる文化の経験
これは、分かりやすい。たしかに、ベートーヴェンとドビュッシーではピアニッシモひとつとっても、その内容は異なるものだと感じる。そして、そういう違いを経験することは、音楽の(表現の)幅を広げるためにもきわめて重要だと思われる。
「異なる文化を経験してみることに価値があると考えるのは当たり前のことだ。」
まったくその通り。
そして、ドイツ大統領ヨハネス・ラウの演説(2000年)から、愛国心とナショナリズムの違いについて。
「愛国心は、人種差別主義やナショナリズムがけっして容赦されないところにだけ、栄えることができるのです。愛国心をナショナリズムととり違えてはなりません。愛国者とは自分の祖国を愛する人です。ナショナリストとは他の人々の祖国を軽蔑する人です」
■ 音楽から学べるもの、その限界
「民主的な社会に暮らす方法を学びたいのならば、オーケストラで演奏するのがよいだろう。オーケストラで演奏すれば、自分が先導するときと追従するときがわかるようになるからだ。他の人たちのために場所を残しながら、同時にまた自分自身の場所を主張することは一向にかまわない。」
バレンボイムは、人生や世の中のことについて、音楽から学べることは非常に多いと考えている。この、オーケストラと民主的社会のたとえはよく分かる。
といって、彼は音楽に過剰な期待をしているわけではない。
「音楽が中東関係を解決するだろうということにはならない。」と明言するし、音楽の二面性についても決して曖昧にすることはない。
「音楽は人生の学校として最良のものであり、同時にまたそこから逃避するためのもっとも有効な手段にもなるのだから。」
□ 「音楽と社会」の読書メモ、完 □