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[5] 2000.12.15 ニューヨークでの対談(p.150~186)から
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■ 本物であること(オーセンティシティ)
司会役のグゼリミアンからの、「本物であること(オーセンティシティ)」とは何か、という問いかけによって対談が始まる。
バレンボイムは、例によって、音楽とは楽譜に記された「テクスト」ではなく「鳴り響く大気」であるという持論を語る。したがって、テクストに忠実であることは相対的なものでしかありえないことになる。
テンポについても、「多くの音楽家がおかす致命的なミスは、最初からテンポを決めてかかるということなのだから」と言い、作曲家が指定したメトロノーム記号の数字さえ信じていない。一般に、作曲家が指定するメトロノーム記号は速すぎるという。なぜなら、作曲家が頭で想像している段階では、サウンドの「重量」がないためどうしても速くなるのだという。
■ 現代音楽と演奏家・聴衆
バレンボイムは、(過去の)音楽をより深く理解するためにも、現代音楽を演奏したり聴いたりすることが必要だと次のように言う。
「音楽家や演奏家にとって現代の音楽との接触を絶やさないのは、過去の音楽の新しさを理解するために絶対に欠かせないからだ。」
そして、ハリソン・バートウィスルの『エクソディ』を世界初演したあと、同じプログラムでチャイコフスキーの交響曲『悲愴』を指揮したときの経験を次のように述べている。
「チャイコフスキーの交響曲の多くのパッセージに、これまでよりずっと新しいものを感じとり、理解することができた。」
サイードは聴き手に関して、聴衆には二種類あることを言っている。
「聴衆のなかには上演を可能にさせている人々がいる。企業や裕福な人々だ。こういう人たちは…とても保守的なことが多い。彼らは新しい音楽など望んでいない。」
「もう一方の種類の聴衆は、とても数が少ない。音楽を知り、それが生活の一部になっているという人々で、その数はどんどん減っている。」
後者は新しい音楽を望む人たちだと言っているのだと思う。が、個人的にはこの「二種類の聴衆」の間に、一般的な音楽愛好家がいると思う。そして、そのなかにも聴きなれた「クラシック音楽」を楽しみたい人から、何らかの新しい音楽を聴きたい、新しい音楽経験をしたいという人までが混在しているのではないだろうか。
問題は、食べず嫌いならぬ「聴かず嫌い」だろうと思う。が、その責任は、現代音楽を聴く機会がいっこうに増えない状況を作り出している、今の音楽業界にあると思えてならない。
バレンボイムは、現代音楽を近づきにくくしている原因の一つが、演奏家の側にもあったことを認めている。原因の一つは「演奏がじゅうぶんな高水準に達していなかったからだ」という。そして、例えば現代のシカゴ交響楽団の演奏するシェーンベルクには、じゅうぶんな「自然らしさのある透明性が聴こえる」という。
確かに聴く側の「慣れ」や理解度の前に、作曲家の意図をじゅうぶんに表現するだけの理解度と技術をもった演奏家が必要なのだろう。そして演奏家にも、慣れ親しみ理解を深めるだけの時間が必要だということである。
現代音楽、あるいは現代の音楽状況について、ある意味で楽観的な対話がされたあとで、対談者二人の口から出た言葉はとても重く感じられた。
バレンボイム:「芸術家は、自己に忠実であるために、まったく譲歩しないという勇気をもたなければならない。しかし、僕らの住む世界はどんどん政治化している。」
サイード:「僕の印象では、音楽は権威を失いつつある。…そのことに僕は困惑し、落胆している。」