2014年6月18日水曜日

「音楽と社会」:音楽を学ぶこと

読書メモ: 『バレンボイム/サイード 音楽と社会』

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[3] 1998.10.10 ニューヨークでの対談(p.85~105)から
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■ 音楽教育について


バレンボイムは、現代の音楽教育の貧困さについて苦言を呈している。アメリカには、実質的には音楽教育が存在しないとさえ言っている。

彼のいう音楽教育とは、作曲家の伝記情報を伝えるようなことだけではなく、

「一つの作品がどのように書かれ、そのインスピレーションがどこからきたのかということも大切だ。でもいちばん大事なのは、音の働きを、いかに人々に説明するかだろう。」

と述べている。

バレンボイム自身が受けた音楽教育については、父親からの教育が非常に重要な位置を占めていると語っている。また、ナディア・ブーランジェから学んだこととして次のようなことをあげている。

「構造を情緒表現の方法としてみること、構造としての感情とは何かということを僕に教えてくれた。」

ここでいう「構造」とは音楽の構造だと思われる。音楽のさまざまな構成(テーマ、フレーズ、楽章、和音、対位法、等々)が、情緒を(たぶん立体的に、より深く)表現するために使われること、したがって、演奏家はその構造が聴き手に伝わるように表現すべき、ということになるのだと考えられる。

■ バレンボイムの音楽観


サイードの「バレンボイム流といえるような独自の音楽観というものは存在しないの?」という問いに応えて、バレンボイムの言葉。

「音楽や音楽の創造についての僕のドクトリンといえるのは、それが基本的にパラドックスというものの本質から出てきたものだということだけだ。」

「極端さは保持しながらも、そこに結びつきを見出さなければならない。…有機的な全体性がつくられる。」

難しい表現であるが、例えばベートーヴェンの音楽にあるような「絶望と希望」のような相反するテーマなどのことを言っているのではないだろうか。あるいは、ピアノ・ソナタの第1主題と第2主題の関係のようなものも含まれているのかもしれない。

それらの、それぞれの特質は保持しながら(安易な妥協をすることなく)、なんらかの関係性・結びつきを見出すこと。それが、上で言っている「構造を情緒表現の方法としてみる」ことにもつながるのではないか。そして、そうすることによって、立体的な、有機的な全体像が表現されるということなのだろう。

また、関連する話のなかで次のようなことも言っている。

「音楽の本質に対する最悪の罪は、それを機械的に演奏することだと思う。…二つの音符を奏しただけでも、そこにはなにかの物語が語られているはずなのだ。」

つまり、音楽を演奏することはなんらかの物語を(機械的にではなく)語ること、表現することだ、というのがバレンボイムの音楽観を構成する一つの要素だと思われる。

■ 他の人々の創造物・演奏に学ぶ


有名なピアニストの多くが、全作品の連続演奏などに取り組む話はよく聞く。一般的な聴き手としては、「やっぱり一度はそういうことをやりたいんだろうな」などという感想しかもっていなかった。

バレンボイムは次のように、より深く理解し自らの進歩につなげるためと説明する。

「ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全作品を連続公演するピアニストは、それぞれの個別ソナタについて、明らかにずっと幅広く理解しているはずだ。人生は流動的なものだと思うし、人の思考も流動的なものだと思う。」

「僕らは、他の人々の創造物によって自分を肥やす必要がある時期を経験する。そのうえで、そういうものから自分を切り離す必要のある時期もやってくる。こういうパラドクシカルな揺れ動きが、進歩の道なんじゃないか」

そして、サイードの「君は他のピアニストの演奏を聴きたいと思うかい? それによって自分の聴き方や弾き方がじゃまされることはないのだろうか。」という質問に対しては、次のように答えている。

「新しい作品を学んでいる途中のときは、その作品がほんとうに自分のものになるまでは他のピアニストは聴きたくないね。でも、その後でならば、他のピアニストを聴くことによって多くのものが得られるかもしれない。」

他の人々(作曲家、ピアニストなど)の創造物や演奏を、自分を進歩させるための糧にする、というアグレッシブかつ寛容なバレンボイムの姿勢が見てとれる。そして、「その作品がほんとうに自分のものになるまで」他のピアニストは聴きたくない、という自信と頑固さのようなところも感じられる。面白い。


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