2014年2月6日木曜日

音楽の評価?(佐村河内守さんゴーストライター報道に思う)

非常に残念なニュースがあった。ベストセラーにもなった「交響曲第1番 HIROSHIMA」の「作曲者」佐村河内守さんが、実はゴーストライターを使っていた、というニュースだ。

作曲家(?)としてあるまじき行動であるし、あってはならないことである。が、私が衝撃を受けたのは、ゴーストライターを使っていたことだけではない。それ以上に、マスコミや多くの専門家を初めとする賞賛の声は、あれは何だったのか?ということである。コンサートもすごい盛り上がりだったそうだ。


音楽の評価というのは難しい。クラシック音楽自体が、長い歴史の中で検証され生き残ったものである。

作曲家自身が生きていた時代には評価されず、後世の音楽家に発掘されたような例もある。(メンデルスゾーンによって発掘された「マタイ受難曲」など)逆に、その時代にもてはやされていた作曲家が、今ではその名前さえほとんど知られていない例も多い。


私自身は、TV(たぶんNHK)で紹介されたのがきっかけで、YouTubeで「交響曲第1番」を聴いた。その後、東日本大震災に向けた「ピアノのためのレクイエム」をTVの特集で、「ヴァイオリンのためのソナチネ」を高橋大輔のフィギュアスケートのショートプログラムで聴いた。

どの曲もなかなかいいと思った。ただ自分自身、「耳が聴こえない作曲家」とか「HIROSHIMA」(原爆2世)とか「東日本大震災」とかの、周辺情報や「物語性」に影響されずに音楽を聴いていたかどうか?それは自信はない。ただ、音の響きやメロディーに魅力を感じたことも事実である。


音楽は、音楽それ自体を評価すべきである。とか、音楽の本質と作曲家がそれを創ったときの境遇などを結び付けるべきではない。とかいった考え方がある。

一方で、現代はさまざまなもの(芸術や文化までも)が、あまりに商業主義化されメディア化されていると思う。そして「儲け」と「話題性」(=視聴率等)を最大化するためのテクニックや手法が必要以上に高度化されているように見える。それは、音楽自体を感じる、評価することの大きな妨げになっているのではないか?


専門家の中には、疑問を投げかけていた人もいたようだ。それを知って「せめてもの救い」のように感じた。→「全聾の天才作曲家」佐村河内守は本物か―新潮45eBooklet





今後どうなっていくのか?メディアがこれをもう一つの「餌食」にせず、まともな音楽論や文化論を展開するきっかけにしてくれることを祈る。



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