3日前の記事《バレンボイムはただ者ではない》で、『バレンボイム音楽論』という本に感銘を受けたという話を書いた。
が、内容の紹介まで至っていなかった(ほぼ著者の紹介、それもコピペでした、すみません…)ので、少しずつ自分なりに咀嚼して書いてみたいと思う。
私の中に「いい音楽とは何か」というテーマがずっとある。それに関連して「音楽の内容」とか「音楽が表現するもの」を理解したいという思いがある。さらに、それは自分が(下手なりに)ピアノを弾くときに、前もって持つべきといわれる「音楽的イメージ」とか、何をどう表現するのかという問題につながっていく。
一筋縄ではいかないだろうとは思う。『バレンボイム音楽論』にも直接的な答えは書いてなかった(と思う)。しかし、かなり大きなヒントをもらったような気がしている。関連する箇所を少し抜き書きしてみる。
私たちは、…、音楽の内容とは正確にはいったい何なのか、…と考え続けることをけっしてやめてはならない。音楽を、数学的な内容だけ、詩的な内容だけ、あるいは、官能的な内容だけをもつものとして定義することはできない。音楽はこれらすべてであり、さらに多くを含むものである。
音楽は人間のあり方とかかわっている。なぜなら、音楽とは人間が作曲し、演奏するものであり、人間とはみずからのもっとも内奥の思考、感情、印象、考察を表現するものだからである。
…感情の均衡を生み出す能力は、問題に対する知性的な認識をよりどころとしている。…音楽においても同様に、作曲するにしても演奏するにしても、知性と感情は密接にかかわりあっている。
彼(エドワード・サイード)は音楽をたんなる音の結合としてだけみるのではなく、すぐれた曲はどれも、いわばある種の世界観であることを理解していた。
こうして一部を抜き書きしてみると、ある意味で当然のように思われるかもしれない。
が、バレンボイムのすごいところは、こういった考え方を基礎において、それぞれの音楽や現実世界の人間や現象に対峙しているところだと思う。
(このあたりは近日中に…書ければ書きたい…)
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《バレンボイムはただ者ではない》
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