読書メモ:『パルランド 私のピアノ人生』
(高橋アキ、2013年、春秋社)
PART 2 新しい音はゼロからはじまる
49(学校時代)
…古色蒼然たる(そう見えた)西洋音楽のごく限られた部分をああしなさい、こうしなさいというあり方に対して疑問を感じるようになって…
61
…聞こえてくる音それぞれが、静寂を破るものとしてではなく、その一部として存在している。そして音に聴き入ることによって自分自身も静寂と一体化し、一つ一つの音は、顕微鏡か望遠鏡ででも見るように、平常の感覚の網目では捉えられないその微細な変化が何次元にもひろがってゆくように思われた。それは虚心でありながら充実した体験だった。
だれでも、耳慣れた音の世界の中では安住できるに違いない。うっとりするとか、魂をゆさぶられるとか、慰められるとか、あるいはロックにのるとか、それらは事前にすでに予期できることなのだから。しかしこうした事前に期待し得るものだけを音楽だと信じ込んでしまうならば、音楽は心理療法としてのバックグラウンド・ミュージックと変わらなくなってしまうのではないだろうか。
※予定調和の心地よさと危険と…
64〜 「伯牙の琴」の話から演奏家・音楽・聴衆
…人に聴いてもらうのも大事だけれど、究極は他人など入る余地のない、音楽と自分との問題しかないのだから…。
…演奏家であるということは、音楽に対する絶えざる自己修練の連続にほかならないからだ。…「・・道」のように、悟りに到る道程みたいに見えるかもしれない。
ただ自分の楽しみのためだけに演奏するというのなら…自分が音楽から必要なだけ慰めとか、楽しみを一方的に受け取るだけでいい…。
けれども演奏家は、音楽から一方的に受けとるだけではすまされない。自己を高め、音楽に近づく努力が必要であり、またそれと同時に他者の理解を必要としているのだ。
69
…現代音楽にとって一人一人の演奏家がいかに責任ある存在であることだろう。《月光》ソナタをいいかげんに演奏されたところで、ベートーヴェンを非難する人はいないだろう。しかし未知の現代曲をもし演奏家がいいかげんに弾けば、作品が批判されてしまうのだ。
※一つの演奏で、これはこういう曲だと決めつける危険は古典音楽にもある
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