2016年7月13日水曜日

ワクワク感のあるピアノ音楽(=同時代の音楽?)を聴きたい

バッハやベートーヴェンからドビュッシーやラヴェルくらいまでの、クラシカルな音楽は好きなのだが、ときどき物足りなさを感じてしまう。

だから、ときどき現代の(同時代の)新しい音楽を聴きたいと思う。その中で、いい作品を見つけたいとも思う。しかし、なかなかそういう作品や演奏にお目(耳)にかからない。

じゃあ、どんな音楽や演奏が聴きたいのか?というと、自分でもよく分かっていないような気がする…。


そのあたり、今読んでいる『パルランド 私のピアノ人生』(高橋アキ)という本の中にヒントがあるかも知れない。




クラシカルな音楽に対する物足りなさ:同時代性?

高橋アキさんが現代ピアノ曲を弾くようになったきっかけなどを話しているところで、次のようなことを言っている。

「博物館入りしているような名曲を学ぶのも大事だけれど、同時代の音楽を演奏することによって社会に参加していきたいと強く願っていた」


私自身にとって「同時代の音楽」は難しいので弾いてみることはなかなかできないが、この言葉にはとても共感できる。

一人のピアノ音楽ファンとしても、「同時代の音楽を聴くことによって、今の社会の息吹みたいなものを感じたい」と思うのだ。


ポピュラー音楽でも、美術でも文学でも、同時代の作品を味わうことは当たり前なのに、なぜ「クラシック音楽」だけが昔の音楽ばかり?と思う。 もう少し気軽に、同時代の音楽を楽しむことができるといい。

そして、アマチュアの初級〜中級者のピアノ愛好家が弾いて楽しめるような(難易度の低い)現代曲があるといいのにと強く思う。(私が知らないだけかもしれないが…)


新しい音楽、ワクワクする演奏を聴きたい

クラシックな(昔の)曲を聴くときも、なにかワクワク感のある演奏が好きである。それは曲の解釈の新鮮さだったり、演奏自体の活き活き感のようなものなのだと思う。

この本に、音楽を聴くときの「予定調和」みたいなことが書いてあって(↓)、なるほどと思った。

「だれでも、耳慣れた音の世界の中では安住できるに違いない。うっとりするとか、魂をゆさぶられるとか、慰められるとか、あるいはロックにのるとか、それらは事前にすでに予期できることなのだから。しかしこうした事前に期待し得るものだけを音楽だと信じ込んでしまうならば、音楽は心理療法としてのバックグラウンド・ミュージックと変わらなくなってしまうのではないだろうか。」


型にはまってあまり面白くない演奏を、私はときどき「古典芸能」と言っている。定番の名曲を巨匠が一分の隙もなく演奏する。それはそれでいいのだが、私が聴きたいのはそういうものではない。

活き活きとした生命力とか、生まれたばかりの新鮮さとか、この先の可能性を感じさせてくれるような「ワクワク感のある演奏」、そういう演奏を聴きたいのだ。


新しさの中身の一つは音響?

そういう「ワクワク感」とか「新しいと感じるもの」はどこから来るのだろうか?

この本を読んでいて、その一つの要素は「音響」に対する作曲家の考え方ではないかと思った。関連する箇所をいくつか抜粋してみる。


「…同じ知の営みといっても、それが音響として実に興味深いものがある。」

「その頃、私はクセナキスやシュトックハウゼンなどの作品を弾くにつけ、個々ばらばらな(ピアノ固有の)音を集めて組み立てていくそのやり方に、新しいピアニズムを感じて感嘆していたのだった。」

「新しいピアニズム」と対比して、昔のピアニズムを次のように説明している。

「…例えばクラシックのピアノ曲の大部分が、オーケストラや人間の声の代用品の役割をピアノに押しつけて、その足りないところを人間の想像力による錯覚で補わせているのとは全く違うものなのである。」


また、武満徹さんが自分の作曲の過程を語った次の言葉も印象的だ。

「最初の音楽的なことやマテリアルについては、ある程度は五線譜の上で考えますよ。けれども、その後はヴァイオリンならヴァイオリンの響きでもって考えたいし、それが遠くから聞こえるとか、近くで聞こえるとか、そういうふうに考えていくんですよ。」


私自身、もともとピアノの音が好きである。だから、ピアノ音楽を聴くときは、ピアノの美しい音響を聴きたいのだ。

ピアノのもつ、一つ一つの美しい音や響き、その連なりや塊(かたまり)、その音響が醸し出す空気感や立体感、そして立ち上る香りやオーラのようなもの。カミさんは立ち上る「湯気」と表現していたが…(^^;)。


新しさの中身のもう一つは哲学みたいなもの?

新しさの源泉としては、哲学(知性、世界観、取り組み姿勢…)みたいなものも関係しているのではないかと思った。

高橋アキは「知的な」ピアニストと言われたりするそうだが、夫君の秋山邦晴氏はこう言っている。

「『知的』というレッテルよりは、『考える』ことの好きなピアニストといったほうがより近いように思う。」

またそれに続けて、ちょっと考えさせられることが書いてある。

「ところで知的といえば、わが国では冷静で冷たい人間に与えられることが多いことばだろう。ピアニストなどは、そんな『知』はいらない。感受性がつよく、個性的で、指がよく回る技術さえ人一倍そなえれば、充分なのだ、といった奇怪な考えが横行している。それは大きな誤りだ。」

私もそう思う。自分の頭で考えない人(ピアニスト)はあまり魅力的には感じない。


また、アキ自身も、クセナキスの「考えることと感じることは分けることができない」という言葉を引用しながら、面白い表現をしている。

「音を聴くことによって考える。それによって新しい感受性がまた開かれていくということが必要なのだ。」


大げさに言えば、そのピアニストの音楽観とか人生観(哲学みたいなもの)が演奏に出ているような気がするのだ。


以上、とりあえずのメモである。

まぁ、もっと実際の音楽(できれば生の演奏)を、クラシックも同時代の音楽も聴いてみないと「頭でっかち」になってしまう。高橋アキさんも、クセナキスの音楽を実際に「音響」として聴いたときに、

「前衛精神がどんなものか、観念的に思い込んでいたのが一掃されてしまった。」

…と言っている。音楽は「音」という実体でできている ♪



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