先週の土曜日、朝のTV番組(サワコの朝)で、俳優の寺尾 聰 が面白いことを言っていた。はっきりとは覚えてないが、おおまかには次のようなことを言っていた。
台本の最後に「さようなら」というセリフがあったとする。これをどう言うか(演技・発話するか)は、このセリフと関連する一つ前のセリフによって決まる。
そのセリフもまたその前のセリフ(がどういう文脈で何を言おうとしているか)によって決まる。そしてそのセリフもまた…、と延々と遡って、最初のセリフにたどり着く。…
…このセリフの連鎖が、一つのドラマや映画のシナリオの「波」である。劇中の一つのセリフは、この全体の流れ「波」の中のどこにあるかで、表現の仕方が決まる。
…といった話、だったと思う。
これを聞いたとき、突然、頭の中で音楽のことに結びついた。2つのことを思い出したのだ。
少し前の記事《近況:ピアノ、少し上達したかも…♪?》に、「曲の終わりが苦手」ということを書いた。
記事には、その原因として「小さい音で和音をきれいに響かせることができない」ことと「"rit."(リタルダンド)が下手」なことをあげた。
要は終わりだけ取り出して、その技術的な課題を書いたのだが、そんな単純な問題じゃないかも…、ということに思い至ったのだ。
曲の終わりは、ある意味で曲の結論(Conclusion)つまり「結び」である。この曲で何を言ってきたか(表現してきたか)を締めくくる「決め」のセリフが最後の和音であったりするわけだ。
曲の終わりをちゃんと締めくくれないのは、そこまでの表現の問題かも知れない。
もう一つは、たしかバレンボイムが言っていた「曲全体を一瞬で理解する」みたいなこと…。
…と思いながら、昔の読書メモを探して見つけたのがコレ(↓)。
「演奏家もまた(作曲家と)同様に、曲の最初の音を演奏しようとするときには、内なる耳で曲の最後の音を聞くことができなければならない。」
ちょっとニュアンスは違うが、私の理解は「音楽は一瞬ですべて(全曲の初めから終わり)を把握できる」ようなイメージだ。もしかすると、他の人が似たようなことを言っていたのかも知れない。
「劇中の一つのセリフは、この全体の流れ『波』の中のどこにあるかで、表現の仕方が決まる」という部分が、「曲の中の一つの音は、音楽全体の流れの中のどこにあるかで、表現の仕方が決まる」という風に聞こえたのだ。
一つの音やフレーズを弾いているときに、音楽全体をイメージするなんてことは、私にはとても出来ないが、そういうことを想像してみることはちょっとした嬉しい体験であった。
音楽という、時の流れとともに一瞬一瞬消え去っていくものが、頭(心)の中では一つの全体像としてまとまって存在するということが確実にある。そして、それが音響の単なる繋がりではない次元で「音楽」を成り立たせているのだ。
バレンボイムみたいな感覚をもってピアノを弾くということは、どんな気持ちがするのだろう…。
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