今日も、仲道郁代さんの『ピアニストはおもしろい』という本からの話題(さすがに最終回)。
今日は、私のやや苦手なシューマンの音楽について。シューマンは「永遠の青春」と語る仲道さんの話で、少しはシューマンを好きになれるだろうか?
シューマンに対する私の苦手意識がどこから来るのか、はっきりいってよく分からない。自分が弾けそうな曲、弾きたい曲があまりないという理由もあるが、聴いていても「いいなぁ」と思うことがあまりない。何となく難しい・分かりづらい気がするのだ。
何としても好きになりたい、と思っているわけではない。素直に聴いて、好みじゃなければ、それはそれでいいと思っている。のだが、少なくともシューマンの音楽を自分なりに把握?したいと思うのだ。
ということで、まずは、シューマンについての仲道さんの言葉をいくつか抜き出してみることにする。
「シューマンの世界は、外から眺めていては味わうことができないのだと思う。中に入り込んで、一緒に、どろどろぼろぼろになって、心の襞の奥底へ降りていく。それがシューマンの美を見つける方法だ。なりふりかまわない不恰好さ。遥かなるものへの憧れ。そこに永遠の青春がある。」
「ショパンが、節度と品格に満ちたロマンだとしたら、シューマンは節度もなにも見えない盲目の、張り裂けんばかりのロマンだ。」
「ショパンははじめに音ありき。音の中に、消え去る音の中に、想いが聴こえてくる。シューマンははじめに想いありき。あふれんばかりの想いを音に込める。」
「彼の主だったピアノ曲は、彼ら(シューマンとクララ)が結婚にいたるまでの九年にもわたる切なく苦しい恋愛期間に書かれているからだ。」
「シューマンの曲は…複雑だ。それはそうだ、だって青春の心の中は複雑で、わかりやすいメロディーでは表現できない屈折をはらんでいるのだから。ああでもない、こうでもない、と揺れ動き、結論には至らない。そんな曖昧さがシューマンの魅力なのだ。」
ん〜、「中に入り込んで、一緒に、どろどろぼろぼろになって」「節度もなにも見えない盲目」「ああでもない、こうでもない、と揺れ動き、結論には至らない」か…。
これは、なかなかついて行けそうもない。この歳になって「一緒にどろどろぼろぼろ」にはなれない。どうしても、少し冷めた自分、頭で考える自分、結論を出したがる自分がいる。とはいえ、難しさの理由の一端は少し見えたような気もする。
まぁ、仲道さんの語ることを頭で理解しながら、若者(シューマンの主要なピアノ作品は20代に作られている)を優しく見守る老人のような気持ちでシューマンの音楽に接してみるか…な? あるいは、純粋に音としてどう楽しめるのか、という付き合い方もあるかも…。
ちなみに、大人になった?仲道さんは最後にこう語っている。
「いつしか、その(シューマンの)世界を外から眺めるようになった。…入り込んで一緒にじたばたできない自分を発見した。」
「(でも、ここへきて…)高校時代の私とは違うアプローチで、永遠の青春に心の底から共感できる私がいる。」
そういえば、私自身も最近共感できるシューマン(「交響的練習曲」の演奏)を聴いた。それが何故なのか、もう一度聴いてみようと思った。私にも「青春のかけら」くらいは残っているのかも知れない?
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