2015年3月18日水曜日

ピアノ進化論2:未来へ開かれているバッハの音楽

バッハの音楽について、『作曲家から見たピアノ進化論』に書かれていたことが妙に腑に落ちたのでご紹介する。




それは、次のようなくだりである。

J.S.バッハの作品ほど、音楽における時間の三つの相(過去・現在・未来)を感じさせるものはない。それだけ、作品は過去の総決算であると同時に、その表現は遠い未来に射程を定めている。この『未来へ開かれている』という観点からも、もしピアノという楽器が、そして特に…ペダルの存在が、彼に何らかの影響を与えていたとしたら…という問いは永遠に解かれぬままとなった。

短い文の中に3つくらいのことが書いてある。

バッハの作品は過去の音楽の総決算であること。バッハの表現は「未来へ開かれている」こと。そして、もしバッハがピアノ(とくにペダル)という楽器を使っていたら、その作品はどうなっていただろうか?という永遠に解かれぬ問いについて。


バッハが使った楽器は、チェンバロやオルガンであった。初期のピアノにも遭遇しているが、その完成度はバッハを満足させるものではなかったようだ。

「もしバッハがピアノを使っていたら…」という問いには興味があるが、考えても答えはないだろう。それよりも、私が腑に落ちたと感じたのは「未来へ開かれている」という表現である。

それとあわせて「射程」という言い方も面白い。バッハ自身が意識していたかどうかは分からないが、彼の表現・作品は、確かに遠い未来である現在に届き、いまなお生命力を持っていると思う。


「未来に開かれている」という表現は、未来の音楽世界で、バッハの作品は「素材」として、音楽の基本要素として、いかようにも使って(料理して)いいですよ、というようなニュアンスを感じる。事実、バッハの音楽は、のちの作曲家が利用したり、編曲したりしているし、ジャズやゲーム音楽にさえなっている。

バッハの音楽は、ベートーヴェンやショパンやドビュッシーなどの音楽のように、感情や詩や自然などを表現するものではない(と思う)。その分、とっつきにくいと感じる人もいるだろう。

私自身、バッハの曲を何度か練習していて(いま練習しているのもフランス組曲)思うのは、いわゆる「感情を込めて弾く」という表現の仕方は馴染まない、というかあまりうまくいかない、ということだ。アンドラーシュ・シフの弾く「フランス組曲」の映像(に映るシフの顔)を見て、何を考え・感じながら弾いているのだろう?と思うこともある。


…ということで、バッハの音楽は、私にとって一つの「謎」であるのだが、上に引用した箇所を読んで少しだけ理解に近づいたかもしれないと思ったのだ。

バッハの作品は、もしかすると、音楽の「本質」のようなものに非常に近いところにあるのではないか、と思ったのだ。「音楽で表現した幸福感」とか「音楽で表現した自然の美しさ」とかではなく、「音楽そのもの」に近いのではないかということ(仮説)である。

そのために、バッハの作品には「普遍性」があって、そのためにとても長い「射程」を持ち、「未来に開かれて」いて、現代まで届いている。そう考えると、なるほどそうかと思えるのだ。


で、それをどう料理するか(演奏するか、作曲に利用するか)は、各人に任されているようなところもあるのかなぁ?とも思ってしまう。

どう弾いてもいいんだよ、ではなく、どう弾くか、そこに何を盛り込むかはあなた自身にかかっているのだよ、という意味で…。


さて、あと10日あまりで「フランス組曲」(の3曲)を仕上げなくてはならない。苦戦は続いている。未来?へ向けて道は遠い。バッハの演奏に完成(これでいい!)はない、という意味でも、バッハの音楽は「未来へ開かれている」のかな?…(^^;)



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