2014年9月25日木曜日

「線の音楽」ノート3:プリペアド・ピアノ〜『線の音楽』

出典:「線の音楽」(近藤 譲 著)
    第1部「アーティキュレイション」

※音群(クラスター)的音楽においては、「音群(クラスター)」の連接は、連接が可能なように音群を調整する、というレベルにとどまっていた。本来、新たに分節された(取り出された、創り出された)「音群」を、調整しない形で「連接」する新しい方法論が探求されるべきであった。

※音群的音楽では、楽音の分節とその連接は分ちがたいものであり「分節=音群」として、合わせて考える必要がある。音群的音楽が突きつけたのは、「一体、どのような音から音楽が可能か」という深刻な課題であった。


アーティキュレイション 第 Ⅲ 章(続き)


プリペアド・ピアノをきっかけに


>音の「分節=連接」の新たな可能性を探るにあたって大きな手がかりとなったのは、1940年代のジョン・ケージのプリペアド・ピアノ作品群であった。そこでの「楽音」の連接様態は、リズム系列での構築的グルーピングはあるものの、楽音の非統一性を反映しているかのように、他には構築的グルーピングは存在しない。

>しかし、それは「構築的でないグルーピング」の存在を否定するわけではない。この時期のケージ作品の豊かさは、彼が分節する「楽音」の独特の美しさと、非構築的なグルーピングをも含めた複雑なグルーピング様態の結果として醸し出されたものであるに違いない。(プリペアド・ピアノ作品の延長にある『弦楽四重奏曲』『六つの旋律』等を含めて)

アメリカ音楽の流れ:アイヴズ、カウエル


>ケージの仕事を理解するには、これまでにたどってきたヨーロッパ音楽中心の論点だけでは不十分である。ヨーロッパと異なる点を中心に概観してみる。

>12音から総音列へと「連接」の方法論が中心であったヨーロッパと異なり、アメリカでは「楽音」を分節する上での様々な可能性に興味の中心があった。

>チャールズ・アイヴズの音楽には、調性音楽の楽音から逸脱した音(例:教会の巨大ベル)への嗜好が見られる。構造上、彼の音楽は後期ロマン派的な調性音楽の母型の上に成り立っている。彼は、高次の楽曲形式レベル以外の連接様態を基本的には保存したまま、楽曲形式上の非構築的傾向を極端なまでに押し進める。結果的に、それは一種のコラージュとなる。

>曲の各部分(調性音楽的)は、その内部構造も、それらの接続方法も、ある程度恣意的であってよい。楽曲形式上の非構築性から考えて、各部分は必ずしも調性的連関によってつなぎとめられる必要はない。

>このような、調性音楽的な連接を基本的に保存したまま、既楽音の固定的な範疇を切り崩していくという傾向は、その後何人かの作曲家に受け継がれた。内部奏法を発明したヘンリー・カウエル(ケージの師の一人)もその一人である。

>既楽音からの逸脱により「連接」の構築的な構造が奪われていくとしても、ここでは調性音楽における連接に当たっての「音の関係づけ」の基準は保たれている。調性音楽的「連接」への信頼を捨てなかった作曲家にとって、音はあくまでディジタルな観点から扱いうるものであった。

※ディジタルに捉えられる要素を持つ音があり、そこにディジタルには捉えられない要素が加わっていく、その先にまったくディジタルに捉えることのできない音が出てくる。それが「楽音(音群)」なのかどうかはよく分からない。

アメリカ音楽の流れ:ジョン・ケージ


>ケージは、プリペアド・ピアノのための『ソナタとインターリュード』での「楽音」の分節方法を、「浜辺を散歩しながら貝を集めるように」音を集めた、と語っている。これを彼は「スタティックな音響音階」と呼ぶ。

>ここでも音は、どれほど多様であっても、あくまでもディジタルに捉えられる。カウエルたちと大きく異なるのは、一挙に大量の「楽音」化しうる非「既楽音」がもたらされたことである。プリペアド・ピアノの発明は作曲作業の様子を変えてしまったのだ。

>アイヴズやカウエルにおいては、楽音の扱いに調性音楽的な連接の構築性の名残が色濃く見られるのに対し、この時期のケージにおいては、それがほとんど見られない。唯一の構築的な構造は、「リズムの時間的長さを基礎とするグルーピング」だが、この構築性は調性音楽におけるものとは明らかに異質である。

>プリペアド・ピアノがもたらした大量の新しい「楽音」は、それまで非「既楽音」の扱いにだけ用いられてきた非構築的なグルーピングを、すべての音にまで拡張する一つのきっかけになったかも知れない。

>これらの「楽音」を連接(グルーピング)しようとすると、それぞれの音がどのようにグルーピングされうるかを、それぞれの音の特性を耳で確かめながら決める必要がある。つまり、「スタティックな音響音階」を拾い集めてきた作曲家は、次にその響きに耳を傾け、聴き出した「連接」様態の範囲の中で、作品を設計することになる。

再現性の低いプリペアド・ピアノから偶然性の音楽へ


>プリペアド・ピアノの問題の一つは「再現性」であった。作曲家によって拾い集められた音を再現することはほとんど不可能である。プリペアの仕方(挟む物の材質、サイズ、挟み方)、ピアノ、ピアニストにより根本的に異なるものとなってしまう。

>ケージは、音楽の「分節=連接」様態は作曲家によって完全に確定されるべき、という考え方であった。そのため、結果的には「分節=連接」を演奏者と聴衆に委ねてしまい、「偶然性の音楽」の方向に進むことになる。

『線の音楽』による臆病な一歩


ケージのこの時期の「楽音」に対する考え方を前提に、構築性に代わるグルーピングの高次の取り扱い原理を探り、そうした原理を見いだすこと。それは、「分節=連接」という音楽化の過程が、作曲家・演奏家・聴き手のどこでどのように行われるか、についても変化を引き起こす。私にとって『線の音楽』は、こうした方向への臆病な第一歩であった。


〔第Ⅲ章完〕


  にほんブログ村 クラシックブログ ピアノへ