2014年9月23日火曜日

「線の音楽」ノート1:調性音楽〜ジョン・ケージ

出典:「線の音楽」(近藤 譲 著)
    第1部「アーティキュレイション」


アーティキュレイション 序


>これまでにあった、音楽外(文学、美術、社会など)から音楽を考える、あるいは作曲技法から音楽の方向性を決めるという二つのアプローチは、どちらも「音楽がどのような形態であるべきか」のアプローチであり、「音がどのように音楽化され得るか」については何の議論もしていない。



アーティキュレイション 第 Ⅰ 章


※音の「分節(化)」という言葉が頻出する。聴いて区別する「音の認識上の分節化」と、楽音と非楽音とを区別する「音の範疇に関する分節化」がある。以後の議論では、両方を含むものとされる。あとの方になると、音楽を組み立てる素材としての音を切り出す、創り出すことも「分節」と呼んでいるようだ。

>今日の芸術世界の一般的な嗜好から想像すれば、「楽音・非楽音」の対立に意味がないように、「音楽・非音楽」の分別も根拠のないことだと主張する人々も多いかもしれない。(しかし、そんなことはない。)

>音の音楽化の第一歩が「音の分節化」である。分節化された音楽可能的な音(楽音)を音楽にするためには、分節化された音を前提とした次の段階の構造化が必要となる。

アーティキュレイション 第 Ⅱ 章


>武満徹の言葉「ひとつの音をもうひとつの音に接ぎたいという欲求」

>音の構造化の第二段階は、複数の分節化された音をどう関係づけ、どう接いでいくかということになる。これを音の「連接」と呼ぶ。

※作曲の作業=音の分節+音の連接 (2段階の構造化)

「調性音楽」に関する考察


※調性音楽における「楽音」はあらかじめ決まっており「音の分節」作業はほぼ不要。「楽音は」声や楽器とその発声方法・奏法によって決まる、音高・強弱・音色をもつ「整律」された音として作曲の前提となる。

>調性音楽には様々な「グルーピング」が存在している。「音→音階→和音→特定の中心音(核音)との関係による和音のグルーピング」が調性音楽の中心であるが、それ以外に「音→動機→フレーズ→楽段→楽節→楽章」や「旋律」「リズム」「形式」などのグルーピングがある。

「十二音技法による音楽」に関する考察


>十二音技法とは音高の体系を拒否するための「方法」であって、それ自体が「体系」をなすことはない。(音階・和音・中心音という概念がない)

※「音→音階→和音→特定の中心音(核音)との関係による和音のグルーピング」以外のグルーピングは存在するが、十二音の任意配列(その逆行や反行も含めて)がある性格を持って聴覚的に認識されることはない。

「総音列音楽」に関する考察


※トータルセリー。ピエール・ブーレーズの「2台のピアノのための『構造』」など。

>総音列音楽では、音高以外の音価(長さ)、強さ、アタックについても、それぞれ独立に十二音技法における音高と同様に基本順列を固定し、それらを組み合わせることで音を決定していく。作曲方法としては組織化されているが、聴覚上は何の組織化ももたらさない。

>結果としては、単にアクセントのある音とない音が予測不能の状態で交代する現象以上のものではない。

>聴き手はどこかに「関係」や「グルーピング」を聴き出そうとするかもしれない。しかし、「聴覚上のグルーピング」も予測不可能で偶成的なものでしかないため、音の分布を集合的に把握し、音の群れをひとつのテクスチュア(音響集積の肌触り)として聴くしかなくなる。

「クラスター音楽」に関する考察


>総音列音楽では結果として偶成的に「音群」が生じたが、クラスター音楽(音群的音楽)では、特定の性格のテクスチュア(=音群)を作るために音を積み上げる。したがって、作曲方法上も聴覚上も「音→音群→・・」というグルーピングが存在する。

>このグルーピングはそれまでの音楽にはないものである。音群を構成する要素や基準は何もない。むしろ「音←音群」という図式。望む音群を作り出すためには様々な方法を使うことが出来る。クセナキスのような「確率」を使うやり方もある。

>クラスター音楽では、音楽を構成するための音群を作曲者自らが準備するわけだが、これは音の「分節」作業にあたる。この分節の仕方(や音群)は作曲家によって異なり、したがって音群のグルーピング方法を一般化することはできなくなる。

ジョン・ケージの「プリペアド・ピアノ」


>プリペアド・ピアノの音の特性は、非常に非統一。ピッチ感の明瞭さ、音色等において統一感はなく、ほとんどの場合は整律的ではなく、統一的な特性はアタックが明瞭であることだけ。打楽器(の音は「半楽音」)に似ているともいえる。

>ケージの作曲方法は、あらかじめ曲の各構成部分の長さを決定し、その寸法に合うようなリズム・フレーズをあてがっていく。これは、リズムをその時間的「長さ」の面から扱ったものと考えられる。「リズムとその時間的長さの扱い方を中心としたグルーピング」と言ってもよい。

ジョン・ケージの「偶然性による音楽」


>ケージは1951年頃から偶然性を導入し始める。そこではあらゆる音が「楽音」として扱われるため、何の統一性もない。音群的音楽では「楽音(音群)」が作曲家によって分節されるが、偶然性の音楽においては、音の集積の聴覚的特性が作曲家によって意図的に計画されることがない。

>これは「音を関係化しない」という考え方であるが、そうなると結果は単なる鳴り響く音にすぎないとも言える。しかしそれが「音楽」として演奏され、認識される場合、聴き手自身が聴覚的な関係づけ(連接)を始めてしまう。

>ここまで、調性音楽からケージの偶然性の音楽まで、楽音の「分節」とその「連接」の関係を中心に見てきた。偶然性の音楽以外では、楽音のグルーピングこそが連接の方法論であった。そして、偶然性の音楽においては、連接方法の欠如が聴き手による連接を促す結果を生んでいたのだ。


〔第Ⅱ章完〕


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