少し前の本だし、感想文(的な記事)を書くつもりはなかったのだが、最近話題にしている人がいたりするので、チェックしてみた。どうやら、映画化が決まったということらしい。
…ということで、少しだけメモ的なことを書いてみようと思う。
これは、何人かの調律師といくつかのピアノとピアノを弾く人たちが登場する、宮下奈都の小説だ。(ご存知の方が多いと思うが…)
ピアノ好きで理工系の私としては、弾くこと・聴くこと以外に、ピアノの仕組みとか作り方とか調律のことにもとても興味がある。そういう意味でも、この本はなかなか面白かった。
チューニングの話とか、ハンマーのフェルトの調整(針で刺す、削る)などの話はよく分かったが、グランドピアノの脚の向きを変えると響きが変わることまでは知らなかった ♪
かなり前になるが、『調律師、至高の音をつくる』や『ピアノはなぜ黒いのか』など、調律師の方の本も興味深く読んだ記憶がある。
自宅のピアノの分解掃除?に付き合ったり、楽器展示会でチューニングの体験をさせてもらったこともある。(以下、参考記事)
さて、小説の話に戻るが、小学生の頃から「感想文」というのは苦手である。「面白かった」とか「つまらなかった」くらいしか思いつかないのである。今でも…(^^;)。
なので、ちょっと私の「琴線に触れた」箇所をいくつか抜き書きしてみることにする。
「人にはひとりひとり生きる場所があるように、ピアノにも一台ずつふさわしい場所があるのだと思う。コンサートホールのピアノは、堂々として、輝いて、いちばん美しい音を響かせて僕たちを魅了する。そう思ってきた。でも、いちばん美しいと誰に言えるのだ。これが最高だと誰が決めるのだ。
…
ホールでたくさんの人と聴く音楽と、できるだけ近くで演奏者の息づかいを感じながら聴く音楽は、比べるようなものではない」
→人もピアノも音楽も「多様性」が大事で、その中には「優劣をつけない」ということも含まれる。
「そのピアノで弾くとね、ピアニストが思っていることが全部音色に出るんだ。逆に言えば、ピアニストの中にない音は弾けない。ピアニストの技量がはっきりと出るってこと」
…
「ほんとうは僕だって、打てば響くように、もっと敏感に反応するように調整したい。でもそれを我慢している。響かないように、鈍く調整する。鍵盤にある程度遊びがあったほうが粗が目立たないからだよ。お客さんに合わせて、わざとあんまり鳴らないピアノに調整しているんだ」
→「ピアニストの中にない音は弾けない」…なんだかすごい言葉のような…。
「歯がゆいなあ。がむしゃらにがんばりたいのに、何をがんばればいいのかわからない」
→この気持ち、よくわかる気がする。
「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」
→原民喜の文章の一節として(たぶん)2回ほど引用されている。印象的な言葉。「文体」を「音」とか「音楽」に置き換えると…。
他にも、いろいろあったのだが忘れてしまった…(^^;)。
若い頃は小説を読むのも好きだったのだが、いつからかほとんど読まなくなってしまった。久しぶりに小説を読んでみて、良くも悪くもトシを感じた…かも知れない。
物語としてそれなりに面白く読めたのだが、「文学的」な観点?から、つまり人生とか仕事とか、あるいは人と人の関係とかについて、(おそらく)作者の言わんとしていることが、すーっとは入ってこない感じがした。
分からないわけではないが、感じ方が浅くなってきたのか、歳をとったせいで、「そんなこと分かっているよ」みたいなことを心のどこかで思っているのか、感受性が枯れてきたのか…。
ところで、映画はどんな作品になるのだろう?
ピアノ(の調律)に関するやや専門的な話も出てくるので、言葉だけでは分かりにくいところも映像化すると面白く描けそうな気もする。それは音楽についてもそうだと思う。
ただ、原作の雰囲気を損なわずに、しかも映画として面白いものにするというのは、素人考えではあるが、結構ハードルが高そうな気がする。
キャストなどは未発表なので、ピアニスト(吹き替え?)が誰なのかも気になるところではある。
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