ちなみに 2015年は、私が初めて国際ピアノコンクールをネット経由で見た・聴いた年で、ショパンコンクールについても非常に興味を持ち、記事もたくさん書いた(↓)。
《ショパン国際ピアノ・コンクール2015 [まとめ]》
《ショパンコンクール:審査員はここを見ている》
《ショパンコンクールの採点表、面白い♪》
以下、 『ショパン・コンクール - 最高峰の舞台を読み解く』の中で面白いと思ったことを簡単にメモしておく。
コンクールの沙汰もカネ次第?
副題の「最高峰の舞台を読み解く」よりも、帯に書いてある「若者たちのあこがれと現実」の部分の方が興味深かった。例えば、ピアノコンクールもある部分ではお金のある人が有利なようだ。
例えば DVD審査では、録音の質がかなり審査に影響する可能性があるが、お金のある人はプロに撮影してもらって、納得できるまで撮り直すことができるが、そうでない人はホームビデオで自撮りするしかない。
また、名前と顔を、事前に審査員に知っておいてもらうのも重要らしい。このコンテスタントはこういう演奏をする人だ、ということを事前に知ってもらうことで、審査員の印象も変わる可能性があるようだ。
でも、そのためには、例えば遠くヨーロッパに出かけて行って、その先生のマスタークラスを受けるとかするわけだが、それにも相当のお金がかかる。
会議は踊る、審査も踊る?
コンクールのあり方や審査の問題は、これまでにもいろんな有識者や当事者たちが様々なことを言っているが、結局「結論」は出ないのでは?と思う。
そもそも優劣をつけられない「音楽」に対して、いろんな「考え方」や「思惑」や「政治」や「運・不運」などが綯い交ぜ(ないまぜ)になって、決まってしまうものなので…。とはいえ、いくつかの「議論」のポイントはあるようだ…。
一つは「ロマン主義」対「ザッハリッヒカイト(即物主義)」、言い換えるとロマン派的自由さをもった感情表現中心の演奏か、「楽譜に忠実」なきっちりした?演奏か、という対立?
それから、ルバートに関する見解の相違。左手はあくまで拍をきちんと刻み、それに対してメロディーが歌うようにルバートするか、左手も同じようにルバートするか、というのが基本的な対立点?なのかな。
ちなみに、1拍目のベース音の響きの上にメロディーを乗せる、という考え方はなるほどと思った。それが外れると、音楽の形が崩れるような気はする。
もう一つは「ショパンらしさ」。これまた見解の分かれるところだろう。
でも、「あとがき」に書いてあったジョーク?「ショパンが、今のショパコンに出ても一次予選で落ちるよね…」というのを聞くと、「…らしさ」というのも不毛な議論のような気がする。
ショパンが残したテキスト(楽譜)から、その後ろにあるもの(過去)を考古学のように推理して行くのか、その先に広がる可能性(未来)を創造して行くのか。両方必要なんだろうが、私は後者の方が好きだ。
いずれにしても、審査員の考え方によって結果が左右されるコンテスタントたちも気の毒ではある…。
可能性を見出すコンクールはできないのか?
ちょっと「感想文」から脱線するが、もっと「未来志向」のコンクールというのは出来ないものなのだろうか?(と、この本を読みながら思った)
つまり、審査員の先生たちは「私たちが教えている通りに弾いている」「技術的に高度に完成されている」「これこそ私の考える『ショパン』だ」などという見方で採点しているような気がしてならない。
そういう、言わば過去の価値観で判断するのではなく、何か新しい音楽の価値、これまでに聴いたことのない魅力的な音楽の響き、そういったものを創り出す「可能性を秘めたピアニスト」を発掘する場にできないものだろうか?
世の中、数え切れないほどのピアノコンクールがあるのだから、一つくらいそういったことを標榜するコンクールがあってもいいと思うのだが…。(私が知らないだけ?)
やはり日本の未来は暗い…のか?
終章「コンクールの未来、日本の未来」も興味深い。
どうも日本人コンテスタントに対する苦言が多いようだ。…で、残念ながら、素人のピアノ音楽ファンでしかない私も同じ感想を持っている。
小山実稚恵さん
「点数をつければそこそこ行くが、積極的に次のラウンドに進ませたいかどうかを問う [YES/NO] 方式には弱い」
「指はよく動くがタッチが浅く、音に密度や質感が欠けていた」
海老彰子さん
「どう演奏をするかという以前に、その音楽が持っている意味をもっと深く掘り下げる必要がある」
「少し皆さん子供っぽいでしょうか…」
「マニキュアをしているような表面的な音楽に終わっている」
ダン・タイソン
「『上手に弾ける』だけでなく『特別なもの』が必要」
「『上手に弾ける』も先生の教えの受動的なコピーでは説得力がない」
「『特別なもの』を伝え、聴き手を納得させるだけのパワーと説得力が必要」
「演奏に対するコンセプトを持ち、楽曲の構造・形式を感じて弾かなければだめ」
これに対し、いづみこさんは、教師に唯々諾々と従う「日本人(生徒)の慎しみ深い気質」(それは音楽面でメリットになることもある)にも原因があるのでは、と書かれている。
そうかも知れないが、これにはやや違和感がある。
そもそも自分自身の「音楽観」とかイメージとか「この曲を弾きたい」という意志みたいなものが希薄なのでは? そうでなければ、唯々諾々と従えるはずはないと思うのだが…?
もう一つ、教師側に「自分の意見を言っていいのだよ」という雰囲気を作れてないことにも、問題があるのではないか? まぁ、「逆らう生徒」を嫌うのはピアノだけでなく、日本の教育界全体の傾向かも知れないが…。この辺り「邪推」です…(^^;)。
とても参考になる話が、2位になったシャルル・リシャール・アムランについて書かれている。
アムランにもっとも影響を与えた先生、アンドレ・ラプラント(1978年チャイコン2位)は(コンクールに勝つ)「傾向と対策」ではなく「自分自身になる方法」を授けた、という話だ。
アムランは、「彼のおかげで自信を持って、自分自身の音楽をつくっていければいいのだと思えるようになりました」とコメントしている。
2015年の「神」はソコロフ?
コラム記事の一つが面白かった。ファイナリストたちがインタビューで好きなピアニストの名前を挙げているが、一番多かったのがソコロフだったということ。
他にあがっている名前は次のようなもの。
ラドゥ・ルプー、ツィメルマン、ディヌ・リパッティ、ホロヴィッツ、アルゲリッチ、エミール・ギレリス、ダン・タイソン、ポゴレリッチ、コルトー、イグナツ・フリードマン、ルービンシュタイン、ラフマニノフ、プレトニョフ、アニー・フィッシャー、…。
なんだ、聴いているピアニストは我々とそんなに変わらないじゃないか…。まぁ、そりゃそうかもしれない…(^^;)。
なんだか読書メモ・感想文というより、随想のようになってしまったかも…。まぁ、お正月ということでお許しを…(^^;)?
【関連記事】
《コンクール》
《Chopin2020》
0 件のコメント:
コメントを投稿