2017年1月16日月曜日

ピアノの「客観的練習」と「私の中の四人の聴衆」

最近『A(アー)をください―ピアニストと室内楽の幸福な関係』という本を読み始めた。著者はピアニストの練木繁夫さん。




きっかけは、単純に「室内楽」のことをもう少し知りたい、ということだったのだが、読んでみるとピアノのこともたくさん書いてあってなかなか面白い。

まだ途中なのだが、もう一つのノート代りのブログ「ぴあの研究ノート」(注:現「ぴあのピアノ♪」)に「読書メモ」を書き始めたところである。


その中で、ちょっと興味を惹かれたのが「客観的練習のすすめ」「私の中の四人 イメージ・トレーニング」という話である。

「客観的練習」というのは、ひとりで行う通常の?練習(「演奏不可能な箇所を可能にするため」の練習)と違って、「自分が人前で演奏するということを念頭においた練習方法」ということらしい。

具体的には、自分が聴衆を前にして弾いているつもりで「演奏」を行うもので、まさにイメージ・トレーニングのようなものである。

そうすると「自分の演奏が大きく感じて楽しくなる」そうだ。あまり技術的なことなどは考えずに、音をよく聴いて、音色やクライマックスへの持っていき方、構成などを考えることが大切になるとのこと。


さらに面白いのは、練木氏の場合、4人の「聴衆」を想定するらしい。

尊敬する人のカテゴリーから2人(その作品の作曲家と自分の師匠)、自分のことを親密に思ってくれる人のカテゴリーから2人(友人、愛する人)。

その4人が、同じ部屋にいて演奏を聴いてくれている。そして、それぞれの立場で、意見や感想があれば言ってくれる。

とても面白い発想だと思ったのだが、実は、シューマンにおける「フロレスタン、オイゼビウス、クララ」の存在がヒントになっているらしい。なるほど…。


自分自身の練習を振り返って見ると、ほとんどが「主観的練習」。そもそも、弾けない曲を練習して弾けるようになると嬉しい、というまさに「演奏不可能な箇所を可能にするため」の練習しかしていない。

人前で演奏することなど、想像できない。ある意味「自己満足」が目標になっているし、そこまで行くのも大変だったりする…。

「自己満足」を図式化すると、

 好きな曲を弾く
  ↓
 弾いた音を自分で聴く
  ↓
 プロの弾いたイメージに近いと嬉しい

という感じかな…?


音楽というのは聴き手に届いてナンボのもの、という考え方には共感できるし、そうあってほしいとは思うのだが、私自身が「音楽を届ける人」にはなかなかなれないだろう、というのがホンネである。

なので、「客観的練習」をやるとしても「聴衆」として想像できるのは作曲家くらいになるのかも…。


練習中にはっきりと意識したことはないが、このブログの記事にときどき作曲家のイラストが登場するのは、心の片隅くらいでは作曲家の存在を意識しているからかも知れない。

ただ、イメージするとしたら、「聴衆」として目の前にいるというよりも、なんとなく斜め後ろから見られているような気がしないでもない。

私の斜め後ろに立っているシューベルトが、肩越しに私の練習を見ている。それは嬉しいことなのか怖いのか?

まぁ、そもそも私ごときのレベルの低い(「演奏」などとはとても言えない)練習を見てくれるはずもないが、そこは私の個人的な妄想なので…(^^;)。


でも、実を言うと、あまり好みではなかったシューベルトのピアノ曲が、最近じわ〜っと「いいなぁ ♪」と思えるようになってきて、少しシューベルトに親しみを感じ始めているところではある。

なので、ちょっとこの仮想的聴衆(シューベルト!)を想定した「客観的練習」もたまにはやってみようか、と思わないでもない。

私のような独習者にとっては、何らかの効果?があるかも知れない…。



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