この春リサイタルを聴いて感激したキット・アームストロング、チャイコフスキーコンクールの真の覇者だと疑わないルカ・ドゥバルグ、ショパンコンクールで個性的な演奏を聴かせてくれたケイト・リウ。こういう、何か新しいものを聴かせてくれそうな、ワクワク感の感じられるピアニストが好きだ。
彼らは他のピアニストと何が違うのだろう、と思いながらふと思い出したのが、そういうピアニストの大先輩であるグレン・グールドだ。で、とりあえず手近な新書をざっと読んでみた。
『グレン・グールド 孤高のコンサート・ピアニスト』という2012年に出た本である。
で、「他のピアニストと何が違うのだろう」という、元々のテーマはさておき(後日書きたいとは思っているが…)、興味深い話がいくつかあったので書き留めておきたい。
一つは、グールドが1957年にソ連(現ロシア)へ演奏旅行に出かけた時のことである。
北米のピアニストがソ連で演奏するのは第2次大戦後初めてだったらしい。当然、知名度も低く、客席は半分も埋まっていなかったのだが、そのあとが面白い。
リサイタル前半のバッハを聴いて聴衆は素直に熱狂した。
「何の予備知識もない人々が、宣伝に踊らされたのでもなく、評論家の文章を読んで鵜呑みにしたのでもなく、自分の耳で聴いて、熱狂したのだ。」
そして、その聴衆は前半が終わると我先に外へ飛び出し、友人や知人に「すぐ聴きに来い」と連絡をとったのだ。当時、ソ連の演奏会の休憩時間は1時間あったので、後半から聴きに来ることも可能だったようだ。
その結果、後半は満員の熱狂する聴衆で埋まり、アンコールの嵐だった。スウェーリンクの幻想曲、ゴールドベルクから2つの変奏、さらに3つの変奏、それでも拍手が鳴り止まないので5つの変奏を弾いた。
この話ですごいと思ったのは、ソ連の聴衆の反応だ。「自分の耳で聴いて」素直に感動してる姿が素晴らしい。
もちろん、当時の文化レベルもそれなりに高かったのだろうが、今の(文化レベルが高いはずの)日本では起きないような気もしている。いや、当時の日本でも、吉田秀和さんが絶賛するまではグールドの評価は低かったのだから…。
モスクワでの予定が終わったあと、モスクワ音楽院の学生が何としても聴きたいと運動した結果、ゲンリッヒ・ネイガウス教授がグールドと交渉し、レクチャー付き演奏会を開いたという話も興味深い。ネイガウスとグールドに接点があったとは知らなかった。
そして、そこで演奏した曲がすごい。当時のソ連では「聴いてはいけない音楽」であった新ウィーン学派の音楽(ベルク、ヴェーベルンなど)を披露したのだ。曲目を告げたときに、年配の教授2人が退席したらしい。
もう一つは、チャイコフスキーコンクールのこと。もともとロシアの国を挙げてのイベントであると思ってはいたのだが、その始まりを知ると国策そのものであったことが分かる。そして、その設立・実施に関わった人たちは錚々たるメンバーである。
その準備が始まったのは1956年だが、組織委員会の委員長はなんとショスタコーヴィチ。そして、その目的は「『雪どけ』政策を文化・芸術面で推し進めるためのプロジェクト」「ソ連の開放政策が真実であることを全世界に知らせるため」というものであった。
米ソ冷戦の緊張緩和を印象付けるために米国・西側の音楽家の参加を推進するのだが、もちろん、ソ連としては国威発揚が真意であった。ソ連の若者が西側の音楽家をおさえて優勝する、というのが当然のシナリオとされた。
結果は、ご存知の通り、アメリカのクライバーンが優勝することになる。審査員の一人にリヒテルがいたが、クライバーンに満点、他は0点をつけたらしい。
この裏で困った立場に立たされたのが審査委員長のエミール・ギレリス。ロシア人から優勝者を出さないと何が起きるか分からない。ギレリスは、結局フルシチョフ首相に直談判をして、「高度な政治判断」でクライバーンの優勝となったようだ。
チャイコフスキーコンクールの表彰式にプーチン大統領が出るのを見ても、「国策」的ないろんなことは今でもあるのではないか、と思ってしまう。
最後に軽い話題。CAMI(コロンビア・アーティスト・マネジメント)という会社のこと。
この名前は、《ルカ・ドゥバルグ君、大手音楽代理店と契約!》のニュースで知ったのだが、けっこう老舗で昔の大物も契約しているようだ。
この本の中では、ヴァン・クライバーンがジュリアード音楽院を卒業した1954年に契約している。そして、グールドはコンサートに出なくなった後にCAMIと契約しているようだ。
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