ロンティボー国際コンクールは日本人2人が入賞し、それはそれでよかったと思う。…のだが、正直に言うと、聴き手としては全体的に物足りなかった。
ロンティボーの審査員を務められた野原みどりさんの短いインタビュー記事があったので読んでみた。
その中で、「特にヨーロッパ中心のコンクールでは、まず基礎を踏まえることが大事です。」ということを言われている。
「日本人は少し前までは『きちんとしているけれど個性がない』と言われることも多かったですが、…、きちんとしていることの素晴らしさや美しさがあり、聴いていて好感を持てる、安心できるのが良い点だと思いました。」
「まず基礎を踏まえ、その上で自分が表現したいことをしてほしいと思います。」
…といった内容だ。
とくに反論があるわけではないが、なんとなく違和感のようなものを感じる。一言でいうと「お稽古事」の延長のようなコメントに聞こえてしまうのだ。
「きちんとしていることの素晴らしさや美しさ」という言い方はなかなか良いなと思う。例えば、ピリスさんの演奏などはとても端正で、「きちんとしていることの素晴らしさや美しさ」を感じさせるピアニストの一人だ。
でも、この記事で言われている「きちんとしている」内容やレベルが、少し低いように感じるのだ。チャイコフスキーコンクールで感じたロシア人コンテスタントたちの、とてもレベルの高い「きちんとしている」に比べると…。
ピアノコンクールに出て上位入賞を目指して、将来はちゃんとしたピアニストになりたいと思っている(はずの)コンテスタントたちの「基礎」は、もっとハイレベルのものであってほしいと、ピアノ音楽ファンとしては思うのだ。
基礎が出来てから表現したいものを…というのも違うのではないか?
音楽表現をしたい、表現したいものがあるからそれに必要な技術を身につけたくなるのであって、技術をつけたからそれで表現できるものを演じましょう、というのは順番が逆ではないかと思う。
「音楽を学ぶ人は、まず学び始める前に、精神的な意味ですでに音楽と言えるものを思いのままに操ってなければなりません。」
「残念ながら多くのピアノ演奏家たちが、技術という言葉のもとで、ただただ指の敏捷性、動きの早さ、粒ぞろいの音、勇壮な活発さといったことがらばかりを念頭において…、つまり、技術の個々の要素にのみ目を向けて、…本物の芸術家たちが捉えているような〈本質を包含した技術〉を念頭に置いてはいない…。」
ネイガウスさんは小さい子どもを教える場合にも、よく知っているメロディーをいかに表情豊かに弾くか、といったレッスンをするようだ。ロシアと日本では根本的に教え方が違うのだろうか?
ついでに言うと、「きちんとしているけれど個性がない」という場合の個性は、必ずしも「目立ったこと」や「奇抜なこと」ではないと思うのだが…。
正確に言うと「技術的にはきちんとしているが、みんな同じ『きちんと』であり、何も表現していない」ということなのではないだろうか?
…と、なんとなく感じたことを好き勝手に書いてしまった。「随想」ということでご容赦を…(^^;)。
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