初めて気づいたサンシュユの実 |
〈散歩道の黄色い花の名前が分かった ♪ サンシュユ〉
◆実は、芸術はとても単純なことをやっているのです。「私はこう思う。皆さん、どうですか」と問いかけているのです。それは問いかけであって、答えではありません。芸術は、他人と仲よくやるための知恵なのです。
◆…音楽は彼らの生活にしっかりと溶け込んでいるから、演奏会って概念がないんだ。みんなは自然に集って演奏し、何でもかんでも祝うんだ。人生、誕生、収穫、獲物、その他すべてを祝っているんだよ。(ボツワナでの体験)
⋯ヨーヨー・マ 『音楽と人間と宇宙』(エレナ・マネス)
◆「音楽の美しさ」は「音の美しさ」だけをさすのではない。…音そのものがどんなに美しく壮麗に響いたとしても、その演奏が人生のあらゆる感情を表現しようとするものでない限り、それ(美しい音)だけでは無意味なのだ。
⋯スーザン・トムズ 『静けさの中から: ピアニストの四季』
◆私たちは、…、音楽の内容とは正確にはいったい何なのか、…と考え続けることをけっしてやめてはならない。音楽を、数学的な内容だけ、詩的な内容だけ、あるいは、官能的な内容だけをもつものとして定義することはできない。
音楽はこれらすべてであり、さらに多くを含むものである。音楽は人間のあり方とかかわっている。なぜなら、音楽とは人間が作曲し、演奏するものであり、人間とはみずからのもっとも内奥の思考、感情、印象、考察を表現するものだからである。
⋯バレンボイム《「バレンボイム音楽論」:音と思考(1/2)》
◆クラシック音楽は、…二十世紀に入ってからどんどんと複雑になっていく。1940-50年以降になると、リズムを失っていく。不協和音が多くなり、複雑な構成の中でスコアは真っ黒。専門家は解釈に走る。人々にとって日常の生活で必要とされる音楽ではなくなってしまった。実体を失ったといえる。理論が肥大すると、実質は痩せる。
⋯久石譲 『感動をつくれますか?』
◆クラシックといえば、敬老会の音楽のようになってしまった。…(作品自体はそもそも老人向けではなかった)…モーツァルトのヴァイオリンコンチェルトは、第1番は彼が17歳、あとの4曲は19歳の時の作品…。
⋯森本恭正 『西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け』
◆この時代(十八世紀後半)はアマチュア・ピアニストですら作曲や即興ができてあたりまえだった。…音楽とはとりもなおさず同時代の音楽を意味した。
⋯チャールズ・ローゼン《「ピアノ・ノート」:第7章 演奏スタイルと音楽様式 1/2》
◆200年前のベートーヴェン等の楽譜を演奏しても、奏でられるのは「現在の音楽」である。30年前の「音源」を持ってきて、それを聴いて楽しむポップスとは明らかに基本的な構図が違う。
⋯江村哲二 『音楽を「考える」』
◆いたるところで音楽が流れているというそのことが、音楽をきちんと社会に組み入れることをなによりもさまたげているのだ。
⋯バレンボイム《「バレンボイム音楽論」:プレリュード》
◆クラシック音楽の世界もさまざまな可能性を模索した挙げ句、二十世紀に入って行き詰ってしまった。音を構築しすぎてしまったんです。…完全に「脳化音楽」になってしまったんです。…頭の中で創造した世界をつくったのと同じことを、音楽でもやってきてしまった。
⋯久石譲 『耳で考える ――脳は名曲を欲する』
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