最近、ピアノや音楽に関する言葉で、なるほどと思ったものを気の向くままに集めてみた。
実は2年ほど前に(ピアノや音楽に関する本を読み漁っていた頃に)「ピアノ名言集」というタイトルで1〜3まで記事を書いた。今回は、一応?その続きみたいな体裁にしてみた。グレーの文字は私のコメント。
散歩道のマルバルコウ@2021/9/27 |
◆(その演奏の)何が違うか、何が足りないかを言葉で言うことはできない。しかし、実際にピアノで弾いてこうだよと言うことはできる。…音楽に関することを語ることはできても、音楽そのものを語ることはできない。
⋯エイノユハニ・ラウタヴァーラ《ラウタヴァーラ、自らの音楽を語った言葉 ♪》
言葉で語った「名言集」の最初に「言葉で語ることはできない」というのもナンですが…(^^;)。
◆ええ、そんな!…そうやって分けては考えられない。一つの音に全部の要素が込められているはずだから、多少時間が余計にかかっても最初から全体を理解するように努めるべきじゃないか、と。
⋯高橋 アキ 『パルランド 私のピアノ人生』
ある「識者」の「まずは音符を正確に弾くことが基本、きちんと強弱もテンポも何もかもが仕上がったらその先にどう表現するか考える」という発言に対する高橋アキさんの言葉。
◆最初の音楽的なことやマテリアルについては、ある程度は五線譜の上で考えますよ。けれども、その後はヴァイオリンならヴァイオリンの響きでもって考えたいし、それが遠くから聞こえるとか、近くで聞こえるとか、そういうふうに考えていくんですよ。
⋯武満 徹:高橋アキとの対話の中で 『パルランド 私のピアノ人生』
クセナキスやシュトックハウゼンの「個々ばらばらな(ピアノ固有の)音を集めて組み立てていくそのやり方」に、高橋アキさんが感じたものと共通する、新しい音楽へのアプローチの可能性…。
◆12音音楽は学んだが、それは材料にすぎない。問題はそれをどう使うかどう組み立てるか。…自分の好みでないものは作らなかった。…それが私だったのだ(That was me)。
⋯エイノユハニ・ラウタヴァーラ《ラウタヴァーラ、自らの音楽を語った言葉 ♪》
「数千年の西洋音楽の歴史全体を、現代の音楽家は一つの領域として捉えるべきだ」という信念を持ち、それらをすべて学び実践したラウタヴァーラであればこその、"That was me." という言葉の強さ、潔さ。
◆セリフの連鎖が、一つのドラマや映画のシナリオの「波」である。劇中の一つのセリフは、この全体の流れ「波」の中のどこにあるかで、表現の仕方が決まる。
⋯寺尾 聰:TV番組での話《曲の終わり方〜音楽の流れ〜曲の始め方♪》
ドラマや映画を音楽や曲に、セリフをフレーズや音符に置き換えて理解すると…。
◆決してセンチメンタル(ひ弱)にならず、ガイスティヒ(geistig:精神的)でなくてはならない。
⋯ブラームス《ブラームスの間奏曲 Op.117 を弾くためのTips(コツ?)》
ブラームスは感傷的な演奏を嫌い、とくに低音部に対しては深い音を求めていた。
「どうか、静かには演奏しないで下さい。私が dolce と書いている意味は、espressivo(表情豊かに)ということを意図しているのです」という言葉も残している。
◆「音楽的」にうたって演奏することと、勝手気ままに「出鱈目」に弾くことが混同される…。
ピアノコンクールや音楽教育で、「音楽的」という言葉が、「音楽の様式や演奏上の約束事」を踏まえずに、勝手にテンポをゆらしたり、ルバートするような「恣意的」な演奏に対して使われることがある、という中村紘子さんの厳しいご指摘。
「モーツァルトの演奏とラフマニノフにおける演奏とでは、打鍵の指の角度、深さ浅さ、手首の高さ低さ、力の入れ方抜き方、更には全身のピアノに向かってのフォームまで、必然的にことごとく違ってくる」ということを分かってないピアニストが多いということか…。
◆だれでも、耳慣れた音の世界の中では安住できるに違いない。うっとりするとか、魂をゆさぶられるとか、慰められるとか、あるいはロックにのるとか、それらは事前にすでに予期できることなのだから。
しかしこうした事前に期待し得るものだけを音楽だと信じ込んでしまうならば、音楽は心理療法としてのバックグラウンド・ミュージックと変わらなくなってしまうのではないだろうか。
⋯高橋 アキ 『パルランド 私のピアノ人生』
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