2019年4月19日金曜日

『ドビュッシー最後の一年』を読んで:目指した音楽とは…

『ドビュッシー最後の一年』という青柳いづみこさんの本を読んだ。ドビュッシーが、1918年3月25日に55歳で亡くなる前の話なので、「はじめに」にもあるように「痛恨の一年」の話である。

…ということもあり、面白かったという感想はあまりないが、著者の「ドビュッシーがもう少し生き長らえていたら…」という思いは伝わってきた。



この本は、白水社の雑誌『ふらんす』の連載記事(2017〜2018)に一つの章を加え、大幅加筆したものとなっている。

なので、各章がわりと独立していて、かつ、どちらかと言うとピアニスト青柳いづみこではなく、フランス音楽の学者さんの側面が強く出ている本だと思う。

私の興味はドビュッシーの素晴らしいピアノ曲にあるので、正直に言うとあまり読みやすい本ではなかった。


その中で、ちょっと面白いと思ったのは、著者が「20世紀音楽は不毛」であったと断言していること。そして、ドビュッシーがもう少し生きていたら「ここまで不毛に陥らなかったのではないだろうか」と言っていることだ。

「はじめに」のところに、その考えを要約したような部分があるので、概要を引用しておきたい。革命を起こそうとしたが「道半ばの印象が拭えない」というあとに…。


「彼が目指したのは、ドイツ風の観念的な音楽ではなく、フランス風の感覚的な音楽だった。…音楽こそが…言うに言われぬもの…言葉にならないすべてを雄弁に語る芸術だという信念があった」

「19世紀末には(ドビュッシーの音楽は)前衛的すぎると批判されたが、20世紀にはいるとさらにラディカルな作曲家(ラヴェル、サティ、コクトー、ストラヴィンスキー…)が台頭してくる」

「ドビュッシーがもう少し生き長らえていたら、もう少し彼が彼自身の信ずる方向で先に進んでいたら、20世紀音楽はここまで不毛に陥らなかったのではないだろうか」


気になるのは「彼自身の信ずる方向」がどのような方向であったのかということだ。ヒントになりそうなドビュッシーの言葉を少し引用しておく。


「海のざわめき、地平線の曲線、木の葉のあいだを吹きわたる風、小鳥の鋭い啼き声、そういうものがわれわれの心に、ひしめきあう印象を与えます。すると突然、こちらの都合などには少しも頓着なしに、そういう記憶の一つがわれわれのそとに広がり、音楽言語となって表出するのです」


「…今まで音楽はまちがった原理に立って安閑としていたんです。あまりにも『書く』ことを心がけすぎたのです。音楽を紙のために作っているのですよ。耳のために作られてこそ音楽なのに」

「音楽の書法が重視されすぎているのです -- 書法、方式、技術が。音楽を作ろうとして、観念を心のなかにさぐる。すると、自分のまわりに観念をさがさねばならなくなる。観念を表現してくれそうなテーマを結び合わせ、組み立て、空想のなかでひろげる、ということになる。…こうして形而上学が作られます。だが、そんなものは音楽ではないのですよ。音楽なら、聞く人の耳にごく自然に、すっと入ってゆくはずです…」


「自然の音楽(身のまわりにある無数の自然のざわめき)はわれわれをすっぽりと包みこんでいます。そしてわれわれは今まで、そういう言葉に気がつかずに過ごしてきたのです。私にいわせれば、そこに新しい方法があります」

「…音楽というものは、その本質からして、伝統的な厳格な形式の中で繰り広げられるようなものではないと確信するに至っています。それは、律動づけられた時間と色彩とでできているのです…」


いづみこさんは、最後に引用した「律動づけられた時間と色彩」こそドビュッシーが目指したものと考えておられるようで、「これが、私がドビュッシーを通して追い詰めていきたい命題である」と書かれている。

また別のところで「没後百年、ドビュッシーの音楽は、なお扉を開かれるのを待っている」という言葉もあり、ドビュッシーの音楽はまだまだ十分には理解されてない、という思いがあるのだろう。

これからの音楽の方向性のヒントがドビュッシーの音楽の中にたくさん詰まっている、ということかもしれない。


以下、私の読後感想(の断片)。

「不毛な20世紀音楽」の説明には説得力があった。観念・書法・厳格な形式…など、「現代音楽」と言われるものが、私の耳にすっと入っていかない理由がよく分かった。

ドビュッシーの目指した音楽を素人なりにまとめてみるとこんな感じ…?

  • 言うに言われぬもの、音楽でしか表現できないものを、聞く人の耳のために作曲する
  • ヒントは自然のざわめきの中にある
  • 聞く人の耳にごく自然に、すっと入ってゆく「律動づけられた時間と色彩」


音楽的に「不毛な20世紀」は終わってしまったので仕方ないとして、21世紀の今日までの音楽の中に、ドビュッシーが目指したものに近いものがあるのかどうか、ということを知りたくなった。それはどんな響きを持っているのだろう…?


読んだ本はこれ(↓)。ちなみに、雑誌『ふらんす』のWeb版に、この本の元となった連載当時のものが掲載されている。→✏️青柳いづみこ「ドビュッシー 最後の1年」

『ドビュッシー最後の一年』
(中央公論新社  2018/12/7  青柳いづみこ)




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