2017年6月22日木曜日

ピアノを止まらずに弾くコツ「一ではないところからやり直す」?

図書館の新着リストで、なんとなく気になった『介護するからだ』(細馬宏通 著)という本を読んだ。ピアノや音楽と関係ない本を読むのは久しぶりかもしれない。



紹介文(↓)にあった、「人間行動学者」が人間の動きから読み取った内容にちょっと興味をひかれたのだ。まぁ「なんとなく…」というレベルではあるが…。

介護行為が撮影されたビデオを1コマ1コマ見る。心なんて見ない。ただ動きを見る。そこには、言語以前にかしこい身体があった。目利きの人間行動学者が、ベテランワーカーの「神対応」のヒミツに迫る。


読んでみると、けっこう面白いことがいろいろ書いてあるのだが、いつの間にかピアノのことに結びつけている自分を発見して苦笑いするところもあった。

その一つが、長年の課題である「止まらずに弾く」ことに関連ある?かもしれないこと。


それは「食事介助」の話なのだが、初心者がやると1時間かかるところをベテランは15分でやってしまうという。その理由を行動観察から解き明かすわけだ。

分かってきたのは、初心者はうまく行かない場合、その度に仕切り直して「一からやり直す」のに対して、ベテランはうまく行かないことを予知すると、途中から、つまり「一ではないところからやり直す」ことをやっているらしい、ということ。


具体的に言うと、食べ物を箸でつかんで口元へ持っていくのだが、相手が口を開けずに食べるのを拒否したときの対応に差があるそうだ。

初心者は、無理やり口に近づけて、相手の「拒否動作」を完結させてしまう。介護している方も一旦動作を止めるしかない。なので、もう一度食べてもらうためには「一から」仕切り直すことになる。

ところがベテランは、箸を近づけたときに、相手が頭を後ろに引くような「拒否の兆し」を見せると、すっと箸を引っ込め、お茶をとって勧めるなどの行動をとる。つまり、相手の「拒否動作」を完結させない。

この「一ではないところからやり直す」方法によって「食事介助」は停止することなく続けられていく…。


これを読みながら、この介助初心者の「一からやり直す」方法が、私のピアノの「止まってしまうクセ」に似ていると思った次第…(^^;)。

つまり、私の場合、ちょっとでもミスすると、あるいはミスしそうになると、そこで思考も弾く動作も停止してしまって、少し前から仕切り直して弾くことが多いのだ。

指がもつれただけの致命的でない「ニアミス」の場合にも、例えば、音符通りに弾けているのだが、音の大きさが想定外に大きかったり小さかったりした場合とか、音の響きが気に入らない場合にさえ止まってしまうのだ。

悪いクセだと思いながらも、なかなか治らない…(^^;)。これまでに何度も記事を書きながら、まとめ記事(↓)まで作りながら、いまだに…。



苦笑いのついでに、私の「止まるクセ」の場合、「一ではないところからやり直す」という方法はあるのか?少し考えてみた。

まず「ニアミス」の場合、これは意志の問題だろう。何が何でも止まらない!続ける!という強い意志。それと「出てしまった音は戻せない」という割り切り?も必要かもしれない。

あとは「止まって音楽そのものを台無しにするより、多少キズがあっても一つの音楽を完結させる方が大事」ということを、日頃から意識するようなことも…。


では、ホントに間違えた音を出してしまったときには…?

そのときは、そのミスの状態から「何げない顔をして次の音符に移る」という方法しか思いつかない。これはなかなか難しそうな気がするのだが、プロの演奏ではときどきお目にかかる技術?だ。

一流のプロには「ミスを予知し修正する」能力がある、という話を『ピアニストの脳を科学する』という本で読んだことがある。瞬間的にミスタッチする音を小さく弾いたりすることができるそうである。

そんな技術は身につきそうもないし、そのための練習などもありそうな気がしないので、それは諦めるしかないだろう。


ちなみに、このベテラン介護士のように「一ではないところからやり直す」ためには、「粘り強さ」が必要だと書いてある。

その「粘り強さ」には、小さなミスをそのままにしない(あるいは悪化させない)、逆にそのミスを新たな「手掛かり」として次につなげるという、細かいレベルでの(コンマ何秒の世界での)観察と調整が含まれているようだ。

外から見ていると、その動きはとてもスムーズで見事なのだが、実際には細かいミスとそれに対する微調整の繰り返しで成り立っているらしい。(ピアノも同じ?)

ピアノ演奏における「粘り強さ」でも考えてみるか…。


おまけ:もうひとつ、ちょっと面白いと思ったこと。人に「心」はあるか?という設問。

最後はやっぱり、心がこもっているかどうかなんですよね

この言葉は介護についてよく言われるひとつの例として出されているのだが、これはピアノの演奏について言われていてもおかしくない。

著者は「心のあるなし」よりも「人はいかに相手に"心のようなもの"を見出すか」に関心をよせる「人間行動学者」であると自認しているようである。


これを「人はいかにその演奏から"心のようなもの"を聴き取るか」と言い換えると面白いと思う。

つまり、聴いている音楽というのはしょせん「物理現象」に過ぎない。その物理現象でしかない音響から「心」という言い方に代表される「表情」「感情」「思い」「喜怒哀楽」「人間性」などを感じるとすれば、それは何故なのか、何を手掛かりに感じているのか?

ピアノの練習(レッスン)での「心を込めて」「感情を込めて」「こういう気持ちになって」…などという言い方があまりピンとこない私にとって、とても興味深い問題なのだが、今日はちょっと疲れてきたので、またの機会(があれば)に考えてみようかと思う ♪



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