2016年2月6日土曜日

「ピアノの巨人 豊増 昇」:日本にもすごいピアニストがいた!

『ピアノの巨人 豊増昇』という本を読んだ。

豊増昇という名前はまったく知らなかったが、タイトルの「ピアノの巨人」、サブタイトルの「ベルリン・フィルとの初協演」「バッハ全曲連続演奏」、そして「小澤征爾が心を込めて恩師に贈る…」という言葉に惹かれて、この本を手にした。




150ページほどの薄い本なのだが、中身はけっこう濃い。戦前・戦後の日本にこんなすごいピアニストがいたのかという驚きと、豊増昇さんの師弟関係・交友関係などの話が面白くて、一気に読んでしまった。

この本は、「豊増昇生誕百年記念音楽祭」(2013年)に小澤幹雄氏が参加したことをきっかけにして、小澤征爾・幹雄・俊夫という三兄弟の発案で生まれた。内容は、小澤幹雄さんによる豊増敏子夫人(98歳)からの聞き書きや、弟子であった小澤征爾さんや舘野泉さんなどからの「恩師を語る」文章、娘さん吉島龍子さんが書かれた「父の思い出」等からなる。

いろんなエピソードも盛りだくさんで面白いのだが、その中からいくつかご紹介する。


豊増昇は、東京音楽学校でレオニード・コハンスキー(井口基成・秋子・愛子の師匠)、レオ・シロタ(フェルッチョ・ブゾーニの弟子、園田高弘などの師匠)に師事した。

1935年研究科卒業後、教務嘱託としてしばらく東京音楽学校にとどまったが、1937年にベルリンに留学し、リストの高弟といわれるフレデリック・ラモンドに師事した。

この時、ベルリンで、おそらく日本人として初めてのリサイタル「バッハの夕べ」を開き好評(↓)を得る。このとき、まだ25歳。ナチス台頭という不穏な時代である。

…バッハの音楽は、ドイツ人音楽家にしか演奏できないという考え方は、今回の演奏によって砕かれた。…彼の解釈は完全にヨーロッパ的で、しかも芸術的に高度であり、エレガントであった。そして、身体的に余計な動きもなかったのは見事だった。

また、戦前の日本においてベートーヴェンのピアノソナタ全曲連続演奏会というのを、29歳のときに行っている。その最終回(第7回)のリサイタルが、なんと太平洋戦争が始まった、つまり真珠湾攻撃の日(1941年12月8日)。よくリサイタルが開けたものだとも思う。


バッハ没後200年を記念して、1949年〜1950年には、なんと!バッハのピアノ(鍵盤楽器)曲全曲の連続演奏会を行っている。全曲って一体どのくらいあるのだろう?と思ってしまうが、15回のリサイタルで全曲を演奏したようだ。

こうしたこともあり、「バッハの豊増」としての評価も上がり、この3年後、41歳で日本人でただ一人の「新バッハ協会」会員となる。バッハ祭にも招かれて講演と演奏を行っている。

全曲演奏に先立ち、彼は音楽誌に「バッハの演奏について」という文を寄せているが、豊増昇のバッハ観がうかがえて興味深い(↓)。

バッハの作品のような完全な形式を具えて、人間や時代の動揺からむしろ超絶せる客観的な存在の如く独立の世界領域を作っているようなものでは、とにかく、忠実に、そのまま彼自身の再現を目指して表現しようと心掛けるべきものと考えています。


1955年、43歳のとき、ウィーンで戦後日本人初のリサイタルを行っている。曲目はバッハのゴールドベルクとベートーヴェンのピアノソナタ op.111。このときの現地での評価(ドイツの著名な批評家による)も高いものであった(↓)。

繰り返し贈られた盛大な拍手は、要求水準の高い聴衆が、めったに聴くことのできないこの曲を、本来の様式を具現した演奏で聴けたことへの熱い感謝の念を示すものだった。


面白いのは、帰国後のインタビュー。ヨーロッパの音楽事情を訊かれてこんな話をしている。

滞在中にフルトヴェングラーが死んで、…。やっぱり彼なきあとはグンと粒が小さくなります。若手ではカラヤン、チェリビダッケ、マルケヴィッチなど。

カラヤン先生も、巨匠チェリビダッケもこの時点では形無しである…。

当時は、バックハウス、ギーゼキング、ケンプといったピアニストたちが活躍していた時代である。ちなみに、ケンプとは長年の友人で、豊増が亡くなったときには弔電が届いたそうだ。

そして、1956年(44歳)に、ベルリン・フィル定期演奏会に日本人初のソリストとして招かれている。指揮者はヨゼフ・カイルベルトという人、曲はフランクの「交響的変奏曲」。


そのほか、面白かったこと。

1964年の第2回から第4回まで、バッハ国際コンクール(ライプツィヒ:東ドイツ!)の審査員に招かれているのだが、その第2回の優勝者が、あのアファナシエフだったそうだ。


小澤征爾の生涯を決定付けたかもしれない言葉。小澤征爾さんがピアノを習っているときに、ラグビーで両手人差し指を骨折した。豊増先生に相談に行った時に言われた言葉。

「ピアノだけが音楽じゃない。小澤君、指揮というのもあるよ。」


それと、昨日の記事で幅の小さい鍵盤のピアノのことを書いたのだが、なんと豊増昇の使っていたピアノは、「全体で10センチ、オクターブで約1.4センチ鍵盤の幅が…」狭いピアノ(特注)だったそうだ。しかも、豊増さんの紹介で、作曲家の中田喜直も同じピアノを注文したとのこと。ビックリぽん!である。



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