2025年12月7日日曜日

ピアノ随想:クラシック・ピアノ音楽「耳タコ」からの脱却?

今年の My Piano Life は全般的に低調だったのだが、一番気になったのがクラシック・ピアノ音楽に対する「耳タコ」問題であった。

自分でピアノを練習し始めるずっと前から、ピアノ音楽を聴くのはとても好きだった。それが、今年の 5月頃から?聴く気になれない、聴いてもあまりいいと思えない、何を聴きたいか分からない…という「耳タコ」迷路に迷い込んだようなのだ。

10月にたまたま聴いたダニール・トリフォノフの新譜 "Tchaikovsky" でピアノ音楽の素晴らしさに再会するまで、その状態は続いた…。





トリフォノフの演奏から感じたのは、ピアノの響きの美しさと同時に、本人の言葉にもあるが、「喜び」とか「心の安らぎ」といったものだった。

「子供のアルバム」などは、トリフォノフがこの作品やピアノの美しい音を心から楽しんでいて、一つ一つの音を慈しむように丁寧に弾いている…そう思えた。

久しぶりにピアノの響きに楽しく浸ることができて、「耳タコ」状態から脱却できたことを、本当に感謝したい ♪


そのあと幸運にも、いくつかの素晴らしい演奏と出会えて、私の「耳タコ」問題解消は確実なものとなった。完全に元の状態には戻ってないのだが、それについては後述…。


いくつかの素晴らしい演奏の一つが、ピエール=ローラン・エマールさんが初めて録音した「平均律クラヴィア曲集 第2巻」


エマールさんの「抒情、知性、創意」がバッハの作品に新しい輝きをもたらした…とでも言おうか、ピアノの音や響きが明快で輪郭がはっきりしている。その「くっきり感」「透明感」と「新鮮感」が実に心地よいのだ ♪






比較的よく耳にする、わりと気楽に聴ける曲が多いのだが、実に深みのある聴き応えのある音楽になっていて、安心して音楽に浸ることができるアルバムになっている。




実は、これらを聴く前の 8月にも、一度だけ「耳タコ」脱却の兆しがあって、そのときは現代作曲家のピアノ協奏曲だった。

ファジル・サイの最新のピアノ協奏曲「マザー・アース」と、ベント・セアンセンの「ピアノ協奏曲第2番〈La Mattina〉」を、献呈されたレイフ・オヴェ・アンスネスが弾いているもの。


どちらの曲も「現代」の作品なのだが、「現代音楽」にありがちな嫌味とか雑音がまったくなく、音響の美しさとともに情緒とか「詩心」を感じさせる音楽になっている。


以下、この「耳タコ」問題とそこからの「脱却」について、自分なりに思ったことを少しだけ書いておきたい。

元々、私の音楽の聴き方としては、ある意味「即物的」な面があって、音の美しさ、音の広がり(音響)を楽しむ、そこに浸ることが好きなようだ。

音楽の解釈の正しさとか、ピアノの正しい弾き方とかにはあまり興味はなく、演奏技術の上手・下手についても、結果としての「音」に表れるかどうかだと思っている。

それと、音楽を聴く楽しみの一つが「ワクワク感」だとも思っていて、新しいものとか「新鮮採れたて」みたいな音楽や演奏に惹かれる傾向がある。


さらに、今回の「耳タコ」問題を考える中で何となく分かって来たことがいくつかある。

ピアノ作品はよく「四期」(バロック、古典、ロマン、近現代)に分けられるのだが、現時点の私の好みは、一番好きなのがバロック(とそれ以前)で、古典と近現代はまぁまぁ好きで、ロマンはそれほどでもない…という感じのようなのだ。(以前とは変わっている…)

で、今回一番強く「耳タコ」を感じたのは「ロマン」を中心にした音楽だったような気がしている。この部分の「耳タコ」は今も残っている…(^^;)。

「現代」については、上の現代ピアノ協奏曲の記事にも書いたように、とても好きな作品ととても嫌いな作品がある…といった感じになっている。


そして、この傾向に輪をかけたのが、実は今回のショパンコンクールだったかも…?


いつも新しいお気に入りピアニストの発見を期待しながら楽しませて戴いているピアノコンクールだが、今回だけは途中で聴くのが嫌になってしまった…(^^;)。

素晴らしいリサイタルのような演奏を聴かせてくれたピアニストが 3人も 3次で落とされるのを見て、本当にガッカリした。

審査員の判断と私の感性が異なるのはいつものことだが、今回はあまりに違いすぎていたのと、審査員団がバラバラな印象があって、素直に演奏を楽しめなくなった。

それと、コンテスタントたちのあまりに一生懸命すぎる演奏にちょっと疲れてしまった…というのもあったように思う。

それは、最初に紹介したトリフォノフのアルバムを聴いて気づいたことであるが…。


音楽はやはり、聴き手に余計な緊張を強いるようなことがあってはならないと思う。映画音楽のような、ある「効果」を狙ったものでなければ…。

幸せな気持ちで「音」に浸ることが出来なければ、少なくとも私には、その音楽を聴く価値を見出すことは出来ない。


…ということで、私の「耳タコ」からの「脱却」は、よく考えると「脱却」はしてなくて、当たり前のこと(↓)を確認しただけのことかも知れない…(^^;)。

気に入った作品・気に入った演奏を選んで聴くこと

もちろん、気に入ったものを探す努力は必要だ。現代に新しく生まれている音楽とか、古い作品でも新しい解釈の素晴らしい演奏とか…。個人的に知らなかった音楽なども。

ピアノ音楽ファンだからといって、すべてのピアノ曲を聴いたり好きになったりしなくてはならないことは、まったくないのだから…。


では、なぜ「耳タコ」だと思ったのか?

どうも「ピアノ音楽と言えばベートーヴェン、モーツァルト、ショパン、リスト、ブラームス、ラフマニノフ…等々(を聴かねばならない)」みたいな、クラシック・ピアノ音楽に対する「常識」のようなものが影響していたのかも知れない。

好きなピアノ音楽が「バロック以前」と「現代音楽(の一部)」ということでも、まったく問題ないはずだが、ピアノを練習するのに上のような作曲家をやらない・聴かないのはあり得ない…みたいな感覚もありそうな気がする。

クラシック音楽界の「古典芸能」的音楽偏重ということも関係しているかも…。




いずれにしても、もう以下のようなことは気にしないことにした。

  • コンクールで入賞するピアニストが私の好みとは違う
  • 人気ピアニストの演奏が必ずしも私の好みに合わない
  • 演奏・録音機会の多い作品に今ひとつ興味を持てない


最後に、音楽を聴くときの基本的な姿勢として、「タブラ・ラサ」(tabula rasa:何も書かれていない石板、白紙)という言葉を忘れないようにしようと思う。

一切の予断を持たず、まっさらな心で音楽を聴くという姿勢。

これは、吉田秀和氏が音楽を聴くときの基本姿勢を表現した、文芸評論家の篠田一士氏の文章(↓)にあったものだ。

…レコードをまえにしたときの吉田氏の聴覚の奥底には、哲学者のいう tabula rasa が広がっている。 … 一切の予断は払いのけられている。音楽がきこえだした瞬間、吉田氏の内面ははじめて、そして、きわめて強烈な行動を開始し、音楽の動きに従って、目にもあざやかなフィギュレーションがえがきだされる



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