2018年5月18日金曜日

「易しい曲を完璧に」vs「難しい曲をそこそこに」?

ブラームスのピアノソナタ3番 第2楽章、さすがに今回の選曲には無理があったか?と思いつつも練習に励む日々である。

カミさんからも「ちょっと難しすぎるんじゃない?」とダメ出しに近いお言葉…。

で、久しぶりに「易しい曲を完璧に」vs「難しい曲をそこそこに」という、ピアノ練習・選曲の永遠の課題?について少し考えてみようと思う。




一つ目の論点は、これって人によって違うだろう…ということ。練習する人の立ち位置というか何のための練習か?によって当然違ってくるはずだ。

例えば、音大受験を目指す子供〜学生さんの場合(経験がないので推測になるが…)、技術的な上達と「課題曲」的なものをマスターすることが目的なんだろうと思う。

その場合、「少し難しい曲を完璧に」みたいなスタンスになるのではないだろうか。あるいは、技術練習の進み具合によって、そのレベルにあった曲を弾くことで技術練習の成果を確認する、といったこともあるかも知れない。

その前提には、到達するべきレベルの段階があって、その「階段」を着実に登っていくため、あるいは確認するための選曲ということになるのではないかと思う。


一方で、私のような素人が、純粋に楽しんで弾く場合の選曲は、かなり様子が異なってくる。前提となる「階段」が存在しないのだから…。

上手くはなりたいが、「階段」を登って「音大合格」のレベルに達したいわけではない。

あるのは「弾きたい曲」「これが弾けたらいいだろうなぁ〜」という、とりあえずは自分の技術レベルを無視した「願望」…(^^;)♪

で、その「弾きたい曲」が手が届きそうならすぐにやってみるし、無理そうなら、もう少し上手くなったら弾こう(上手くなる可能性は低いとしても…?)ととりあえず保留しておくことになる。

でも、どうしても弾いてみたいという思いが強いと、今回の私のブラームスのように無謀な挑戦をすることになる。上手くいけば「そこそこの自己満足」になるし、ダメなら途中で放棄(挫折…)することになる。


二つ目の論点は、「易しい曲を完璧に」の方が「難しい曲をそこそこに」よりも難しいのではないか?ということ。

私の言っている「難しい曲をそこそこに」というのは、曲がりなりにも(曲りなりでいいから…?)とりあえず楽譜に近い音符が拾えて、自分がイメージしている音楽と似たような音が出ること、…という感じだろうか。

実は、難しくない曲でも「私の仕上がりレベル」はこんなものかも知れない…(^^;)。

で、この「そこそこに」をやるための「技術」はそんなに高いレベルではないような気がする。例え、その曲の「難易度」が高いとしても…。


ところが「易しい曲を完璧に」の方は、「完璧」の内容にもよるのだが、例えばそれが「音楽としてちゃんと仕上げる」ことだとしたら、これは相当に難しいのではないか。

私が比較的易しい曲を「そこそこ弾ける」ようになったとする。そこから「完璧に」までに何をすればいいのだろうか?

一つには、表情をつけるとか感情を表現するとか、その作品らしさを出すとか…の漠然とした「感覚」の話がありそうだ。

もう一つは、技術的な話として、強弱やアゴーギクをもっと繊細にコントロールすること、フレージングを洗練させること、タッチの精度を上げること、等々が「表現技術」として必要になるのだろう。

表現のための技術としては、そもそもの「音色」の質とか、その多彩さとか使い分けとかもあるだろうし、極端に言えば10本の指のそれぞれのタッチとか重みを、縦横方向に変えるようなこともあるのだろう。

…といったことは、自分にはまったく不可能なことなので、プロの演奏を聴いて感じたことや、本やネットの情報からの推測でしかないが…(^^;)。


まぁ、そこまで言わなくても…というのは当然出てくる感想だと思う。その人なりの「完璧」のレベルというものがある、という考え方もある。

素人が趣味で楽しむ分にはそういう「妥協」もアリだとは思う。


このあたりから、私の頭の中では「弾く人」から「聴く人」へ立ち位置がシフトしているようなので、一旦「弾く人」の話は終わりにしたい。

私の場合、「弾く人」としては「難しい(弾きたい)曲をそこそこに」弾けるようになればいい、というのが現時点での結論だ。


ここからは「聴く人」として、最近思ったことを少し…。


先日、《アレクサンドル・トラーゼ(Alexander Toradze)ロシア奏法の大先生》という記事を書いたときに、トラーゼ先生の「スーパーピアノレッスン」の動画を見た。

その中でとても印象に残ったところがあった。

トラーゼ先生は「弾くだけではだめ」と言って、その「弾くだけ」の演奏をちょっとやって見せているのだが、それが生徒さんの弾き方そっくりで、「あ〜『弾くだけ』の弾き方」ってこうなのか、と瞬間的に理解できたのだ。

そして、「音楽を、音楽の温度を感じなさい」「その感じたものを鍵盤を通して音にするのです」というようなことを言っていた。

この「感じた音楽を音にする」のが「表現技術」なのだと思う。


で、自分の無知を棚上げにして、かつ失礼を承知で言うと…。

日頃、日本人ピアニスト(プロ)の演奏を聴いて感じていた物足りなさは、実はこのあたりに原因があるのではないか?ということ。

音楽の内容を感じ取り、それを表現すること自体、かなり高度な精神的活動だと思う。それだけで難しいことだと思うのだが、ピアニストとしてはそれを「ピアノで表現する技術」が必要になる。

技術を持っているだけではダメで、それを「適材適所」的に駆使する必要があるし、さらに、その結果に対する感性(とフィードバック能力のようなもの)が求められる。

まぁ、深く考えたわけではなく、直感的に思ったことなので、かなり見当違いのことを言ってしまったかも知れないのだが…。


…と、話がややこしくなってきたので今日はこれくらいで…。とりあえずは、ブラームスをどうやって「そこそこに」弾けるようにするのか?それが大問題だ…(^^;)。


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