何度か記事に書いている(↓)が、ベートーヴェンのソナタを「基本技術」の練習に使わせてもらっている。
まぁ、私としては「基礎練習は曲の中で」と決めているので、これで問題ないのだが、心のどこかで後ろめたさ?のようなものを感じていない訳でもない。つまり…
①ピアノが上手くなりたいんだったらチェルニーとかハノンといった「基礎」は一通りやるべきなのでは?
②新しい曲をやるたびにこれだけ苦労するんだったら、一度「基礎」練習に取り組んだ方がいいかも?
という感じの「べき論(①)」と「効率論(②)」がチラホラ頭をかすめることもある。
なので、一度はまじめに考えてみようか…と思った次第である。
ピアノ練習の2つの流儀?
いろいろ考えているなかで、ピアノ練習には2つの流儀?、あるいは考え方・アプローチの違いがあるのではないかと思えてきた。
流儀 A
目標:ピアノ演奏技術を満遍なく練習して身につけること
→曲はその技術の「応用課題」として練習する
流儀 B
目標:レパートリにしたいピアノ作品をマスターすること
→基礎練習はその作品を弾くために必要な技術の補強するため
といった感じである。
もちろん、これほど明確な区分はないだろうし、普通はこの A と B の間とか折衷案みたいなアプローチになるのだと思う。
ただ、ピアノ教育界(ピアノ教室とか音大とか)はなんとなく A に偏っているのではないか?という気もしないではない。(日本だけ?)
実際に見たり経験したりした訳ではないので、あくまでも本やネットの情報を見たり、演奏を YouTube で聴いたりした範囲での推測(邪推?)でしかないが…。
「流儀 B」を推薦する理由
私としては、あえて言えば「流儀 B」を推薦したい。私が推薦したところで何の効力もないのだが…(^^;)。
理由の一つは、例えばチェルニーは作られた当時の最先端のピアノ音楽、つまりモーツァルトやベートーヴェンのピアノ曲を弾くための技術を身につけるための練習曲である。ドビュッシーやプロコフィエフなどは、当然だが考慮されていない。
もちろん、古典派時代の音楽がその後の音楽の基礎となった訳だから「役に立つ」ということを否定するわけではない。が、カバーしている演奏技術という視点から見ると、やはり限定的なものなのではないのだろうか?
といって、現代ピアノ曲の多様性を考えると、その大部分をカバーした練習曲というのは相当に難しそうだし、途方もない量になりそうな気がする。たぶん、練習曲・練習方法に対する発想の転換が必要なのだろうと思う。
もう一つの理由として、基礎練習、とくに機械的な練習の弊害があるような気がしている。
これを感じるのは、日本人ピアニストの演奏を聴くときが多い。指はよく回るのだが、あるいは大きな音が出るのだが、あまり音楽性が感じられないという残念な演奏だ。
このあたりについては、シーモアさんの『心で弾くピアノ―音楽による自己発見』という本で読んだ言葉(↓)に説得力があった。
「感情のない機械的練習からは正確さは生まれても音楽性が生まれることはない…」
「練習の時から…ひとつひとつの動作に音楽的感情をこめていれば…」
ただ、ハノンに音楽的感情を込めるのは大変かもしれない。
私が「流儀 B」を選ぶ理由
で、最後に私が「流儀 B」を選ぶ理由であるが、簡単に言うと「年齢」ということになるかも知れない。
つまり、今から「基礎」を学んで身につけるだけの時間がない。まぁ、年齢に起因する能力とか忍耐力とか体力とかも…。
で、仮にそれが出来たとしても、今度は、弾きたい曲を練習する時間が相当減ってしまう。
言い方を変えると、《随想?:一生のうちに弾けるピアノ曲の数は?》という記事に書いたことになるだろう。
「ピアノ健康寿命」(私の造語:ピアノが弾ける程度に健康である年数)を考えると、このあとピアノを弾ける時間は有限である。
だから、考えるべきことは「ピアノを最大限に楽しむためには、その有限な時間をどう使えばいいのか?」ということになる。
もちろん「ピアノを楽しむ」の中身は人それぞれである。
私の場合には、その中身が「好きな(弾きたい)曲を一つでも多く弾きたい」ということだし、「自分の音楽的イメージに近づくように弾きたい」ということなのだ。
逆に言うと、ハノンを一つずつ制覇していくことがとても楽しいという人がいてもおかしくないわけだ。
…ということで、何だか最後は「自分で自分を納得させるための作文」みたいになってしまった…(^^;)。
以上、久しぶりの「モヤモヤおじさん」でした…。
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