以前(3月に)《ピアノ演奏の種類・ランク?》という記事を書いた。ピアノの演奏をランク分けしてみたものだ。こんな感じ(↓)。
A:「巨匠」レベルの(神が降りた?)演奏
B:「プロ」レベル、聴衆を満足させる演奏
C:「職業ピアニスト」、まあそこそこの演奏
D: 演奏活動をメインとしていないピアノの先生などの演奏
E:「発展途上」の人たち(音大生やピアノ教室の生徒)の演奏
F:趣味のピアノ演奏
そして、今回のチャイコフスキー・コンクールの結果に対するピアニストの言葉(下記)やルカ・ドゥバルグのインタビュー記事などを読みながら、演奏のレベルだけではなく、そもそもピアニストとしての姿勢?に違いがあるのではないか、と思うようになった。
ベレゾフスキー:ルカ・ドゥバルグはどんなに低く見積もっても3位、自分の見解では2位になるべきだった。しかし、外国人審査員たちが「彼はプロフェッショナルではない」という理由で低い評価をくだしたのだ。
マツーエフ:ルカ・ドゥバルグの〈夜のガスパール〉とメトネルのソナタを聴いたとき、このようなコンクールを主催できて本当に幸せだ、我々の長年の努力はこの瞬間のためだったと思った。彼は聴衆と批評家の心を獲得した。
ルイサダ:ルカの演奏・存在自体が、我々(ピアノ音楽業界?)が長年抱えている最も大きな音楽的教訓(問題提起)なのだ。(意訳)
テクニックを徹底的に仕込まれたはずのベレゾフスキーやマツーエフが、(技術的には問題もあったらしい)ルカ君の演奏に、純粋に心動かされているのが印象的だ。
「プロフェッショナル」という言葉が出てくるあたり、とルイサダの発言からは、現代のピアノ音楽界が技術偏重、完璧主義に陥っているのではないか、ということを想像させられる。
そして「音楽」そのものを忘れかけている?
プロフェッショナルであるということは悪いことではないと思うが、問題はその中身であろうと思う。音楽が芸術のひとつである以上、器械体操のような採点競技になってはいけないのではないか。
…などと考えながら、もしかするとピアニストの中にも、「ピアノを弾く芸術家」と「ピアノ演奏のプロ」という2種類の人たちがいて、両者の間には意外と大きな隔たりがあるのではないか、と思ってしまった。
直感的に、どういうイメージか書いてみる。
「ピアノを弾く芸術家」
- 芸術家=芸術に仕える人
- 音楽という本質のようなものがあらかじめ存在すると信じている
- 音楽作品のなかにそれを見つけ出すのが目的であり生きがい
- 演奏という行為は、音楽や本質の「発見」と「実体化」
- ある意味でピアノという楽器は道具の一つにすぎない
- 音楽を追求する限り、演奏や表現されるものも変わっていく
「ピアノ演奏のプロ」
- 楽譜の料理人=音符の「正しい」料理法に従って演奏を仕上げる
- 「音楽」は自分が弾いた結果の音でしかない
- 美味しい「料理」=演奏のイメージはあるが「音楽」ではない
- その料理をいかに美味しそうに見せるかの技は豊富
- 演奏という行為は演奏技術の最適な適用に還元される
- いつも同じ演奏をすることがプロフェッショナル
「芸術家」としてのピアニストとして思い浮かぶのは、グレン・グールド、ホロヴィッツ、アルゲリッチ、バレンボイムなど。最近聴いた中でその候補となるのは、キット・アームストロング、ルカ・ドゥバルグ、コロベイニコフ(チャイコンのベートーヴェン)など。
「演奏のプロ」はたくさんいそうだが、あえて名前はあげない。少なくともチャイコフスキー・コンクールの演奏の中で「音楽が聴こえてこない演奏」はいくつもあったと思っている。
他にも、「サーカス的ヴィルトゥオーゾ」とか「ビジネス・パーソン」みたいなピアニストの種類もありそうだ。
前者は、技術の凄さを見せつけるためにピアノを弾く人、演奏はパフォーマンスであり、感動させることより驚かせることに意義を感じるようなピアニスト。音楽作品は自分の技をいかに効果的に披瀝するかの材料にすぎない。…というイメージ。「演奏のプロ」の一種。
後者は、ピアノ演奏やその技量や知識でいかに稼ぐかに主眼をおいているような人たち。「売り出し方」がポイントとなるが、現代のメディアや音楽業界との相性はいいのかも。いやしくもピアニストのなかにそんな人はいないだろう、と思いたいところだが、意外に目につくような気がしている。
…と、分類することが目的ではないのだが、ついついこんなことを考えさせられたコンクール(チャイコンは)でもあり、ピアノ・ファンとしては、少し理解が深まったような気がして、感謝している。
いずれにしても、私が聴きたいのは「ピアノを弾く芸術家」の演奏である。若手にも、そういう雰囲気・可能性を感じさせるピアニストが出てきたことは、これからのピアノ音楽界とても楽しみだ ♪
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