吉田秀和さんの『たとえ世界が不条理だったとしても』(朝日新聞出版)という本を読んだ。内容は 2000〜2004年の朝日新聞に連載された「新・音楽展望」を集めたものなので、色んな話題が入っている。
感想記事は書くつもりはなかったのだが、ちょっと面白い、あるいは興味を惹かれたことがいくつかあったので、引用&メモを書いておきたい。
この本を読むきっかけになったのは、音楽評論家の白石美雪さんの著書『音楽評論の一五〇年』のなかの吉田秀和さんのことを書いた章を読んだこと。
ちなみに「昨日、今日、明日」という記事で、吉田さんはこの白石美雪さんの論評を「これほどの新聞評はめったにあるものではない」と褒めている。
その「昨日、今日、明日」という記事に、当時 86歳になる吉田さんが老人の思い?を書いている件(くだり)がちょっと面白く共感した。
「…次の世紀(21世紀)もさぞ辛いものになるのだろうが、それに正面から向き合わずに済むのは老人の数少ない功徳のひとつではないかというのが、今の私の秘かな思いなのだから」
「時の流れがただ良い方向にゆくなどという考え方には、無警戒でついていかれなくなった。…音楽に話を限っても、新しい音楽というだけで、それを『未来は良くなる』式イデオロギーと結びつけて位置づけるのは無理になった」
「では、二十一世紀にはどうなるのだろう?私の望みを言えば、新しいものは新しいものとして受け入れ、だからといって、それが古いものより優れたものときめてかからず、古いものでも新しいものでも良いものは大切にする。これぐらいが、せいぜいの提案だ」
現代の音楽に興味を持ちながら、理解できないものも多いと感じている私としては、「古いものでも新しいものでも良いものは大切にする」という考え方はいいと思う。ただ「良いもの」を聴き分けるのは結構難しいのではないかとも思う。
この数百年に膨大な量の音楽作品が作られ演奏され、あるものは現代まで生き残り、あるものは忘れ去られ…、ときに再び日の目を見るものもあり、評価も浮いたり沈んだり…、そういうことの結果として、現在我々が味わい楽しんでいる音楽の状況が存在する。
そういう音楽を聴いた経験の積み重ねと自分自身の好み・感性のようなものが合わさったフィルター?を通して、新しい音楽を聴き「良いもの」を探す訳だが…。
本当に「良いもの」は「歴史の篩(ふるい)」にかけられて、後の世に残って行くのだろうが、それがどんなものになるかは、今の我々には分からない。
作曲家の方も「新しくて良い音楽」を模索して作り、聴き手も「新しくて良い音楽」を耳を澄まして探す…そういうせめぎ合いのようなものがあるのかも知れない。
その「せめぎ合い」みたいなものを楽しむのも一つの手かも…(^^)?
「今年のCDから」という 2000年の記事に、イグナツ・フリードマンの演奏について触れた箇所がある(↓)。
「…今世紀(20世紀)前半の名手たちはもっと自由で、もっと『心の真実』がまっすぐに伝わってくる弾き方をしていたのを改めて痛感せずにいられなくなる」
「グレン・グールドこそはこれを先取りした人だった」
「自由」「心の真実」…、最近のコンクール入賞者や「新進気鋭の」若いピアニストの演奏に足りないのはそういうものではないかと、勝手に思った。
「小径の今」という文章は、「旧大佛次郎茶亭」として残された大佛次郎の茶室と、取り壊されて宅地として分譲された小林秀雄の住宅跡地を並べて、鎌倉の変遷などを語っているのだが、その最後に書かれていることが印象に残った。"9.11" の年の 11月の記事だ。
「ニューヨークでのあのことが起こって以来、私は書くのが辛くてならない。それでも、… 私は書き続けるだろう。人間は生きている限り、自分の信じ愛するものを力をつくして大切にするほかないのだから」
「自分の信じ愛するものを力をつくして大切にする」…平易な言葉で語られているが、生き方の根底を表現したもののように感じられる。
吉田さんの感想として、
「…私が特に興味を引かれるのは、彼が演奏に当たって、『音楽を形で捉えること』と『先取りの必要性』を説いている点である」
…と書いてあり、堤さんの本から下記の箇所が引用されている。
「ある曲を弾くとしたら、すでに最初の主題を弾く前に、そのあと何が来て、どうなってゆくか、全体とのかかわりはどうなるかを、よく考えておかなければならない」
なるほど…と思うが、自分のピアノの練習に当てはめるとかなり難しそう…(^^;)。
おまけ。この本を読みながら、聴いてみたいと思ったいくつかのピアノ演奏。
- ガヴリーロフのゴルトベルク変奏曲
- ピリスさんののベートーヴェン:ソナタ op.27-1,2 op.109
- ラドゥ・ルプーのシューベルト:ソナタ19番
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