何となく、現在の私の状態(ピアノ曲に対するちょっとした「耳タコ」状態)に関連していそうでもあるし、現代音楽を聴くときに感じることにも通じるような気もする。
思いつくまま随想的?に書いてみたい。(長文注意)
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著者の外山滋比古氏は、本を読むことについて、二種類の読み方があるのではないか…ということを軸に「読み」に関する様々な考察をされている。
内容が分かっている文章を読むことを「アルファー読み」、内容がよく分からない文章を読むことを「ベーター読み」と命名して、この二つの違いについて述べておられる。
この考え方自体が私にとっては新鮮で説得力があり、関連する話題も面白かった。
例えば、内容のある文章は難解であるべきという「難解信仰」から、文章は分かりやすい方がいいという「平明至上主義」へと移ってしまったことにより、文章の内容も希薄になっている(ベーター読みの機会が減った)…という主張は本当にその通りだと思った。
まず簡単に「α(アルファー)読み」と「β(ベーター)読み」について整理してみる。
- α 読み:既に知っていることを読む
- →簡単に分かる→知的な進歩や発見は少ない
- β 読み:知らないことを読む
- →理解するのに骨が折れる→知的な進歩や発見が期待できる
これを音楽を聴くことに対応させてみる。
- α 聴き:知っている(聴き慣れた)音楽を聴く
- →安心して聴ける→感性的な進歩や発見は少ない
- β 聴き:知らない(聴き慣れない)音楽を聴く
- →心して聴く必要がある→感性的な進歩や発見が期待できる
α と β は混在していてその割合が異なる…というのが通常のあり方である。
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私が理解した範囲を図式化すると上のようになる。外山氏の主張を正しく読み取っているかどうか分からないが、これをもとに考えたことをいくつか…。
まずは私の個人的な「耳タコ状態」に対する一つの解釈。
元々、私の音楽の聴き方として、何か新しいこと(ワクワク感、初めて聴く素晴らしい音楽や音響など)を期待して、それを楽しむことが多い。
よく知っている音楽でも、例えば「ベートーヴェンはこうでなくちゃ ♪」という安心感?(確認、腑に落ちる感じ?)みたいなものと同時に、「こんな弾き方(音)もあるんだ!」という嬉しい驚きや発見を期待していることが多い。
これは、基本的に「α 聴き」なのだろうが、「β 聴き」の要素(新しい発見への期待感)もかなりの分量で混じっているような気もする。
で、このところあまりワクワクする演奏に巡り合ってないために、そういう経験が重なることで、知っている曲(の演奏)に対する期待感が下がっているのかも知れない。
知っている曲を知っているように演奏してもらってもあまり嬉しくない?
もちろん、知っている美しい曲をイメージ通りに美しく弾いてくれる演奏に浸る喜びも(たまに…)感じない訳ではないのだが…。
もう一つは「現代音楽」を聴くときのこと。
基本的に「β 聴き」にならざるを得ないと思うのだが、同時にこれまでに知っている音楽との関連を忘れることは出来ないので、ある程度「α 聴き」との混在にはなるのだろう。
ちなみに、文章を読むこととの連想で言えば、音楽には「解釈」(演奏)というものがあり、実はこちらの方が文章の「読み」に近いのかも知れない。
「現代音楽」との関連では「古典化と風化」という話が面白かった。
現代に残っている「古典」(本、音楽、…)は、長い時を経て淘汰され生き残ったものだ。長い時間の中で繰り返し読まれたり演奏されたり聴かれたりする中で、最初は分からないと思われたものも、その良さが発見され理解され「古典」となっていく。
あるいは、忘れ去られていく(「風化」していく)。
「現代音楽」とくにピアノ作品に興味があるが、初めて聴く曲ですぐに「いいなぁ ♪」と思うことは稀である。といって、「つまらない」「好きでない」と判断できる訳でもない。
良さを発見・理解したいがすぐには分からない…という状態…?
そういう状態が実は大事で、その状態を切り捨ててはいけない、時が解決してくれることを忘れてはいけない…といったことがこの本には書いてある。
「時が解決」の中には、繰り返し聴く・考えることもあるし、「寝かせておく」というのもある。自分の進化・変化の可能性もあるし、社会・環境の変化もあるかも知れない。
外山氏によると、現代人は「合理的にものごとを考えようとする。理解ということも人間の思考と知識のみで説明できるように思いがちである」とのこと。
つまり、その時点の自分の「思考と知識」ですべてが判断できると思ってしまって、分からないことは「関係ない、意味ない」などとそこでケリをつけてしまう訳だ。
ある意味「傲慢」とも言えるかも知れない。
個人的には、「分からないことを分からないまま保持しておくこと」は現役時代から少し心掛けてきたことだ。それは、色々と考えを巡らせるための材料だと思っている。
人生の中では、分からないこと、すぐには決められないことなどが沢山あって、その複数の「宙ぶらりん」をそのまま保持しておくことが、どこかで新しい気づきになったり、何かを見たり体験した時に繋がったりすることもあると思うからだ。
進歩のネタになる可能性を考えると、その場その場で「ケリをつけてしまうこと」はもったいないことでもある。
分かり方にも、じわ〜っと次第に分かっていくこともあるし、あるとき突然に視野が開けるように分かることもある。それをじっくり待つことも大事だと思う。
ちなみに、音楽に関しての「分からないまま保持しておくこと」については、聴いた音楽をそのまま記憶することはできないものか?…と思っているのだが、どうもそんな能力?は私にはなさそうだ…。
それから、「β 聴き」は「意味の発見」でもある。
その発見される意味は必ずしも作曲家が意図したものと一致するとは限らない。そして、正解は一つとは限らないし、時とともに変化することもある。
作曲家が意図した以上のもの(意味)を後世の演奏家が発見(実現)することもあるだろうし、そこには楽器や技術の発展も関係してくるかも知れない。
人間はおのおの独自の世界(環境・コンテクスト)に生きている。コンテクストが違っていれば、同じ表現について、必然的に異なる解釈が生まれる。
…といった考え方と、演奏に関する「テキスト至上主義」や、作曲家が何を表現しようとしたかが一番重要とする考え方などとの対比を考えることも面白いかも知れない。
…が、思わず長文(駄文?)になってしまったので、この辺で筆を置くことにする…(^^;)。
文章の『「読み」の整理学』という本を読んでいるのに、途中からは音楽の聴き方との類似点の多さに気を取られて、半ば「妄想」しながらの読書になってしまった結果である。
まぁ、それはそれで楽しい時間ではあった ♪
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