2013年8月3日土曜日

読書メモ:耳で考える

気楽な暇つぶしのつもりで、養老孟司さんと久石譲さんという魅力的な組合せの対談本を読んでみた。軽く読めたわりには面白かった。内容は結構多岐にわたるので、とくに面白かったことを書いてみる。


『耳で考える ――脳は名曲を欲する』(対談:養老孟司、久石譲)




久石さんの発言で、なるほどと思ったのは「現代音楽の歴史は脳化への道だった」という一節。

現代音楽を少しでも理解したいと思って、少し前から音(音楽?)を聴いたり、本を読んだりしているが、いまひとつ分からない。分かる分からない以前に、好きになれない。などと考えていた私にとって、「脳化音楽」という言い方が、素直に腑に落ちたのである。


クラシック音楽の世界もさまざまな可能性を模索した挙げ句、二十世紀に入って行き詰ってしまった。音を構築しすぎてしまったんです。…完全に『脳化音楽』になってしまったんです。…頭の中で創造した世界をつくったのと同じことを、音楽でもやってきてしまった。

現代音楽の難解さの一つの理由は、やはり「頭でっかち」「理論先行」なんだと改めて納得した。もちろん、行き詰まりを打開する方法論あるいは「実験」としての試みは尊重したい。でも、音楽は結局その作品自体の価値・魅力で語られるべきだと思う。


そして、その「脳化音楽」がちょっと違うんじゃないか、ということで出てきた音楽の一つが「ミニマル・ミュージック」であったらしいのだが、その解説も、短いながら分かりやすかった。

…たとえば『タカタカタカタカ』という一つの音型があると、永遠に繰り返すだけなんです。基本的に金太郎飴みたいな構造(笑)。もちろんそれだけでは音楽とはいえませんから、変容させていく。たとえば一つの音型に同じ音型を重ねて、さらにもう一つ重ねて、それをちょっとずつズラしていく…。

ちなみに、このくだりを読んでいるときに、ふと気がつくと外でセミが鳴いていた。よく聴くと、ジージーとミーンミーンとが混じっていて妙なるハーモニーを奏でている。

これって一種の「ミニマル・ミュージック」?少なくとも上の久石さんの説明には合致する。欧米人は日本人と違って虫の声はノイズとしか感じないらしいので、日本人にしか分からない感覚かも知れないが…。


もう一つ面白かったのは「インテンション(意向)」の話。

久石さんがロンドン交響楽団を指揮したときの話。音楽の言葉で、つまり「ここフォルテ!粘る!」とか言ってもうまくいかなかったのが、曲の背景を言葉で説明したら、たちまち音が変わった、という話。曲は「The End of the World」で、背景は「アフター9.11…」。

養老さんの説明によると、言葉で説明した「意向」が楽団員に伝わり、彼らの「志向性(インテンショナリティ)」が変わった。志向性が変わったことが運動系の神経に伝えられて、感覚が動く。それによって演奏が変わった…、ということらしい。

「神経線維の双方向性」などの説明があるのだが、そこはよく理解できなかった。しかし、楽団員の意識の持ち方が変わることで演奏自体が変わるというのは、何となく分かるような気がする。


そして最後に、「自分の一生は作品である!」という養老さんの卓見。

音楽と直接は関係ないが、「人生は作品である」という考えには強く共感した。そして、「修行」によって自分を鍛え高めることで、一つの作品としての自分自身あるいは自分の人生が磨かれていく。

そういう考え方は、昔はあったような気がする。何の因果か分からないが、とにかく自分に与えられた心身と一生という時間、これを最大限に活かすことが、生きるということだと思いたい。


音楽家がよりよい音楽を作ろうと四苦八苦すること、演奏家がよりよい演奏を目指して日々精進すること、なども音楽や演奏という作品を作ると同時に、「自分の人生」という作品を作り続けている、ということかも知れない。

レベルはず~っと下がるが、60の手習いでピアノはどこまで弾けるようになるか、とりあえず毎日練習しているのも、同じことだと思いたい…。



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