またまた間があいてしまったが、「西洋音楽論」(↓)からの三つ目(最後)の論点について。(西洋音楽と現代音楽の話は関連するので一つにまとめた)
まず驚いたこと。
ほとんどの人は、「クラシック音楽=西洋音楽=グローバル」と、なんとなく思っているのではないだろうか。ところがこの本によると、「クラシック音楽」は必ずしもグローバルではないらしい。
モーツァルトを知らない国や地域がかなりあるらしいのだ。著者は「モーツァルトを知っている地域と知らない地域で、世界の地政図が描ける」のではないか、とまで言っている。
西洋音楽を知らない地域では、「音楽=地域の音楽」である。江戸時代の日本を想像すればいいのだろう。
とはいえ、ヨーロッパ音楽は「楽譜(五線記譜法)」という「スタンダード」(JISのような標準規約)を持つことにより、ヨーロッパ「地域」を越えて広がる力を持った。どんな音楽も同じフォーマットで記述することにより、理解可能・演奏(再現)可能になり、歌を別の楽器で演奏したり、一つの曲を再利用することも可能となったのである。
ただし、注意しなくてはいけないのは、楽譜の表現能力には限界があることである。細かいニュアンスや音程や節回しなど、多くのものが捨象されて(切り捨てられて)記されているのである。
逆に、一つの楽譜をいろいろに解釈する余地も出現した。これが、色んなバージョン(版)の楽譜ができたり、後の世の演奏家を悩ましたり、逆に独自の演奏を可能にしたりしている、という訳である。
さて、クラシック音楽がなんとなく行き詰っているのは、たぶんそうなのだろう。一方で、「現代音楽」がいまひとつパッとしない、あるいは一般の音楽愛好家にあまり受け容れられてないのも、その通りだと思う。
このあたりが何とか打破されて、これまでに聴いたことのないような素晴らしい「21世紀音楽」を体感したい、と願っているのだが…。
「現代音楽」に対して、著者は冷ややかである。
「(現代音楽のコンサート)…の観客は、作曲家或いは音楽大学の作曲科学生とその友人知人ばかりで、…『内輪の我慢会』などと…」
「最初は面白がった、ある意味新鮮だった、でもいつも同じような音しかしない。なんだか作曲家の、目的のない実験につき合わされているよう…」
その理由として、「何か重要なものが欠けていた」、それは「音楽性」である、と言うのだが…。
「音楽性」という言葉は曖昧であり、人によって受け取りかたが異なると思われる。なので、この「理由」も、分かったようで分からない。「何か重要なもの」は何なのか、もう少し考える必要がありそうだ。
個人的な感想として、この本で言っている「FUZZ(さわり)」、つまり非西洋音楽にあるノイズの要素とか、五線譜では書き表せない微妙な音程や節回し、あるいはそもそもの音楽に対する非西洋的姿勢などに、打破するための糸口がありそうな気がしている。
「自然と融和した中で、竹林に吹く風のように奏でられる邦楽器」はいい。もちろん、実験音楽の中でそういったものが試されているのは、少しは知っている。
問題は、そこから出てくる音楽が心地よくないということである。
現代に生きる音楽家の皆さんに期待したい。
【関連記事】
0 件のコメント:
コメントを投稿