今朝ふと目にした光景。2つのスポンジ。外を見ながら何を想う、何を語り合っている?…わけはないのだが…。
で、話は急に音楽への連想になるのだが…。
2つの並んだスポンジから上のようなことをふと思ってしまうのは、この「情景」が何かを「表現」していて、見るものに何かを感じさせている?のだろうか?
見ている側が勝手に解釈して感じているにすぎない、とは思うのだが、私の心がふっとゆるんで一瞬ニヤッとしたことは確かなのだ。
では音楽ではどうだろう。
作曲家は、意図的に何かを表現しようとして曲を作る。その何かは、気持ちでも思想でも、あるいは単に美しい音の響きを作りたいということでもよい。演奏家は、その何かを楽譜から汲み取って、それを音として表現しようとする。聴き手はそれを聴いて感じる。
その一連の過程で、作曲家が意図したものは間違いなく伝わるのか。伝わるためには、演奏家が正しく解釈し、その「何か」が伝わるように音で表現し、かつ聴き手が「正しく」(?)感じる必要がある。
音楽で何かを(感情や気持ちを)表現するというのは、どういうことなのかを考えてしまう。
ピアノを弾くとき、私たちは何かを「表現」しようとしているのだろうか?
単純に、ピアノを弾くこと自体を楽しむことと、表現することにどれほどの違い(距離)があるのだろう。あるいは、表現を意識したときと、楽しみで弾いているときと、結果として出てくる音は違っているのだろうか?
数日前の、《「ベルガマスク:プレリュード」練習方法の悩み&近況》という記事で、「⑤どう表現したらいいのか気持ちが定まらない?」悩みを書いた。
「これまでは…自分の感じるままに表現(?)すれば、とりあえずは『自己満足』できていた…。ところが、この曲では、…ドビュッシーはここでどんな感じを表現したかったのだろうか、といったことが気になるのだ。」
ドビュッシーの「意図」が分からないとうまく弾けない(自己満足もできない)ような気がしたのだ。
それぞれの部分の音の響きは美しいので、それはそれでいい気持ちになるのだが…。曲をつなげて弾こうとすると、フレーズをどうつなげればいいのか、どう音楽の流れを作っていけばいいのかが、よく分からなくなるのだ。
それがうまくつながって流れないと、自己満足できない、弾いている「嬉しさ」が半減するような気がする。というより、気持ちがしっくりこない、落ち着かないのだ。
まぁ、それ以前にちゃんと弾けるようにならなくては、話が始まらないのだが。
ただ、下手は下手なりにピアノを弾く楽しみを味わいたいし、楽しむためにはある程度「表現」できないとだめなようなのだ。(がんばらなくっちゃ…)
【関連記事】
《「ベルガマスク:プレリュード」練習方法の悩み&近況》
![](https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgQXw2JEfMJe-zK2Bzj5dDkIKqq1oTQ35puH2WoTciT94D0btA2Ac0ifod6iOcrMBGm-aX02M5gZ-t25SnHA5BpP6VPxfNHAdtiHo8j28zvyTYtw6vy8kbU2F5Cq42J69KTgL4wauUtGpaq/s1600/FB.png)
![](https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEicv9AtLPNVMEJAwArBqteEPy9urzPXigIL3HeF-k2PGO48SNB-FxBWYpWkX74CG7EZxSl9KJm-dOra7yliZ44_tt-hiBF6_7WVECs8-WaEHeFQKl1sxn4bMksgQGZ3bdRD1oesO_UJ4wpY/s320/TW.png)
![にほんブログ村 クラシックブログ ピアノへ](http://classic.blogmura.com/piano/img/piano106_24.gif)
![](https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg45fys10qisY6yQ7n1K74dIH7VaTNh0Xp6PLLQJhizM1E99TU1IiPvHCc2_3WgiS-kO1rq1oVj5Nvvg8dsTmsp7y0R-yOv6gb4KnqSYOZQeRSkIr8sMhFwbeU1WHHzOfU4DpkHoMzAjfgZ/s1600/about.png)
0 件のコメント:
コメントを投稿