こんなことを書くと叱られそうだが…(^^;)、ピアノ曲の器の大きさに対して、その内容を表現できる器の大きさを持ち合わせていないピアニストが多かったように思う。技術的にはちゃんと弾けていても…である。
例えば、ベートーヴェンのピアノソナタを何人かのコンペチタが弾いていた。ピアノを操作するという技術的な面では「弾けている」のだろうが、聴いている私の感じ方は「弾けてない」=「ベートーヴェンの音楽を表現できてない」というものであった。
もちろん、好みの問題もあるので、私の感じ方は「個人の感想」でしかないが…。
最近あまり聞かなくなったような気がするが、「器量」という言葉がある。辞書を見ると「ある事をするのにふさわしい能力や人徳」とあり、「指導者としての器量に乏しい」などの使い方例も出てくる。
ピアノに当てはめると、「ある作品をピアノで弾く(表現する)のにふさわしい能力や人徳」が「ピアニストの器量」ということになるだろう。
「人徳」とまで言うつもりはないが、人間性とか人間としての成熟度のようなものは、いい演奏には欠かせないものだと思う。
ただ「器の大きさ」という言い方は誤解を招くかも知れない。ピアニストの器の大きさが作品の大きさ、あるいは作曲家の器の大きさを超えるといった単純な大小関係ではない。
作品や作曲家を理解し、そこに表現されている人間の感情や営みを理解するための、人としての叡智や成熟度。そして、それを音楽として表現するだけの音楽性や表現技術。そういったものが「ピアニストの器量」になると思う。
浜松国際ピアノコンクールの審査委員アレクサンダー・コブリンさんのインタビュー記事(↓)に「器量」を理解するヒントがあると思った。
✏️【公式】アレクサンダー・コブリン審査委員 インタビュー
ピアニストがいかに「個性」を出すかという話題で、コブリンさんはこう言っている。
「個性の違いは、楽譜に忠実に演奏し、同じ言葉、リズムの上で、同じゴールを目指している中、自然とあらわれてくるものです」
「そしてそのゴールとは、作曲家の世界に深く入り込み、彼らの苦しみを自分のものにすることです。でも、それには彼らが何に苦しんでいたのかを理解しないといけません。作品が書かれた時代、宗教、関連する文学などさまざまなことを知る必要があります」
この「作曲家の世界に深く入り込み、彼らの苦しみ(or 喜怒哀楽など)を自分のものにする」ことを可能にするのが「ピアニストの器量」だと思うのだが…。
こんなことを考えたきっかけは、浜松国際ピアノコンクールを聴き終わったあとの疲労感のようなものであった。コンクール自体は楽しませてもらったのだけれど…。
最初はピアノをずっと、とくに本選は6人の演奏をぜんぶ聴いて、単なる聴き疲れかと思っていたのだが、その疲れの中に「フラストレーション」のようなものを感じたのだ。
「本物の音楽(ピアノ演奏)が聴きたい」というのがそのときの正直な感想だった。
そして、私がたまたま選んだのはマリー=アンジュ・グッチのセザール・フランクと、ケイト・リウがショパンコンクールで弾いた「アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ」であった。両方とも素晴らしかった。耳と心が洗われる思いだった ♪
聴きながらもう一つ別のことを考えた。「浜コンのコンペチタたちはまだ若くて発展途上。先の成長を楽しみにしよう」と思っていたのだが…。
マリー=アンジュ・グッチのこの録音("En Miroirs")は19歳くらいのときの演奏だし、ケイト・リウが2015年のショパンコンクールで3位入賞したのは21歳くらいだったはず…。
【関連記事】
《浜松国際2018》(まとめ記事)
浜松国際ピアノコンクールのことを書いているブログをあちこちで見かけます。
返信削除本当に1億総評論家時代ですね^_^;。
サイトー さん、こんにちは ♪
返信削除そうですね、今回の浜松国際コンクールは恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』効果なのか、これまで以上に盛り上がったようですね。チケットも連日完売というニュースが続いて、ピアノファンにとってはとても嬉しいことでした。
…と楽しみつつも、しかも自分ではろくに弾けもしないのに、聴く方は気楽にいろいろと言ってしまいます…(^^;)。コンペチタの方たちのご苦労や喜怒哀楽も少しは分かっているつもりでも、聴き手としてはどうしても「いい演奏」を聴きたいと思ってしまうので…。
「1億総評論家」の前に「1億総音楽ファン」みたいなことになると本当に嬉しいのですが…(^^)♪
こんにちは。初めまして。将来ピアニストになることが夢の小5の女の子の母です。
返信削除こちらのピアノ難易度表がとても参考になるので、よく利用させていただいています。
この記事を読んで、まさに私と思っていることが同じだと思いコメントさせていただきます。
人の心を揺さぶる演奏は、やはり弾き手も感情を乗せて演奏をしないと成立しないのではないか。感情と感情が触れることで、そこで初めて温度を持ち、いい演奏が成立するんじゃないか……なんて小学生相手に講釈を垂れていました。こういう話は、なかなか子どもには伝わりにくく、今日にでもこの記事を読ませます。
どちらかというと今のピアノ教育は、綺麗な音、ミスタッチのない演奏を目指して、音楽の表現(内面的な)はなおざりにされているように思えます。「いい演奏」を目指すと、コンクールではなかなか勝てない現実。厳しいです。
ぷりん さん、こんにちは ♪
返信削除コメントありがとうございます。
素人が勝手に好きなことを書いているブログですが、少しでもお役に立てているとしたら嬉しいです…(^^)♪ この記事は「ここまで書いていいのかな?」と思いながらも、正直な気持ちを書いたものです。「いい演奏」をきちんと評価してくれるコンクールがあったら本当に嬉しいですね ♪ 聴く方としては、その方が心から楽しめるような気がします。