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2022年7月4日月曜日

現代ピアノ曲を本当に味わうには作品にふさわしい演奏が必要

今年の目標《My Piano Life 2022:基本に立ち返る ♪》の一つに「鍵盤音楽史とピアノ曲の勉強」というのがあって、最初は《鍵盤音楽史:バッハ以前》で 22人の作曲家を探索し、4月からは《鍵盤音楽史:現代》で 55人の作曲家のピアノ作品を順次聴いている。

3ヶ月近く現代ピアノ曲を聴き続けても、曲によってはなかなか理解できないというか、どこがいいのかサッパリ分からないものもある。中には耳障りと感じるものも…(^^;)。




私の耳が慣れていないというのもあるかも知れない。バロックや古典派、ロマン派といった、聴き慣れたピアノ曲とは違う「聴き方」?をしないといけないのかも知れない?

「慣れ」という点に関しては、私個人の経験による「慣れ」もあるが、社会的な、あるいは時代としての「慣れ」みたいな話もありそうだ。

バッハの時代の音楽愛好家が、プロコフィエフのピアノソナタを「いいなぁ〜」と思いながら聴く…というのはほとんど想像できない…(^^;)。


『バレンボイム音楽論』という本の中で、バレンボイムは次のようなことを言っている。聴衆にとってもそうだが、演奏者にとっても、十分な「親しみ」「慣れ」を得ることは、現代音楽に関しては難しい状況のようだ。

現代音楽で問題なのは、ほとんどの場合、作品がじゅうぶんな頻度で繰り返して演奏されないことである。この結果、曲にたいして必要な親しみが得られない ― なによりもまず、オーケストラが曲にたいする親しみを得られない。…もちろん、聴衆にとっても同様である



昔のブログ記事を読み返していて、「内田光子の弾く身近なウェーベルン」という興味深い話を再発見?した。

内田光子さんの弾くウェーベルン『変奏曲』を聴いた感想を、青柳いづみこさんが『ピアニストたちの祝祭』という本に書かれている。

ウェーベルンの作品は、徹底的に私情を排した手法で書かれているので、無機的に弾かれることが多いが、内田光子さんは有機的・音楽的に弾いている…という話(↓)だ。

しかし、…(内田光子により)展開されたのは、優れて有機的な音楽だった。小節上の区切りよりは、音楽的なフレーズ感を大切にしたアプローチ。…鋭角的なリズムの間もなく、ふわっとやさしく弾かれる。こんなに身近なウェーベルンを聴くのははじめてだった。



この話を読んで、その演奏を聴きたくなり、YouTube で探してみた。『シェーンベルク:ピアノ協奏曲』という CD に収録されている音源を見つけた。




聴いてみると、たしかに音楽的で美しい。なにより、ピアノの音がとても音楽的な響きを持っていて、優しささえ感じるような演奏だ ♪


ピアノ作品の真価を味合うためには、その作品を実際のピアノの響きに具現化(realize)するための、ふさわしい「解釈」とそれを表現するための「演奏技術」が必要だ…ということの良い例ではないかと思った。

作曲家がイメージした素晴らしい音楽の響きが、実際のピアニストによって未だに作り出されていない素晴らしい作品があるのかも知れない。

我々聴衆は、そういう演奏の登場を待つしかない…残念ながら…。


…ということで、今聴いている現代作曲家たちの作品も、今ある演奏だけで判断するのは、本当は危険なのかも知れない。

とはいえ、そこから「本当はもっと良い作品のはずだ…」とか想像するのは難しいし、楽譜から音をイメージすることはそれ以上に不可能だ…(^^;)。

なので、とりあえずは今聴くことのできる演奏から、できるだけいいものを探すことと、自分の感性や直感を信じて鑑賞するしかないのだろう…。


おまけのつぶやき。

6月のクライバーン国際ピアノコンクールの結果は、個人的には釈然としないものを感じている。ピアノの奏法も「コンテンポラリー」というのか、現代的?(無機的?)なものがよしとされる傾向があるのだろうか?

音に豊かさの感じられない、色彩感覚に乏しいタイプライターのような音が、どれだけきれいに高速に並べられても、あまり魅力を感じないのだが…。

私の感性も古びてきたのかも知れない…(^^;)?


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