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2019年7月25日木曜日

私の音楽の聴き方は人間至上主義なのか…?

音楽やピアノとは関係ない『ホモ・デウス』という本を読んでいて、ふと私の音楽の聴き方(選び方)は「人間至上主義」なのかと思った話…。

音楽を聴くときに、音楽作品やピアニスト(演奏)を選ぶ基準は、私の場合、ただ一つだけ。聴いて自分が「いいなぁ ♪」と思うかどうか、である。

それが当然だと考えていたのだが、歴史を振り返ってみると、必ずしもそれが「当然」ではなかった時代があったようなのだ。


ユヴァル・ノア・ハラリと『ホモ・デウス』原著


読んでいる『ホモ・デウス』という本は、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari、1976〜)が書いた世界的ベストセラーで、副題には「テクノロジーとサピエンスの未来」とある。

大雑把に言うと、「科学技術の発展によって人類は進化し続け、神のような存在になっていく」という人間の未来を予測している本だ。

ちなみに、これまでの人類の歴史を独自の視点で概観した『サピエンス全史』(副題:文明の構造と人類の幸福)もベストセラーになっていて、これも「目からウロコ」満載の面白い本だ。ちょっと小難しいが…(^^;)。

今日はこの本全体の感想文や読書メモを書くつもりではなく、読んでいる途中で出てきた「人間至上主義革命」の中にちょっと書いてある「芸術(美)の基準」みたいな話を読んで思ったことをメモしておこうと思った次第。


「人間至上主義」の前に、それ以前の状況を簡単に説明すると…。

世の善悪とか政治とか芸術など、すべてのものに対する知識とか価値基準は「全能の神」だけが知っていて、人間は分からないことや善悪などの判断は神に聞けばよかった。

芸術も同じで、美の基準は客観的に存在していて(神のみぞ知る?)、人間の感情や一時的な流行などを反映することはなかった。

作曲家がいい作品を創ったときも、その作曲家の感性や能力が生み出したものではなく、「超人間的な力の働きがきっかけで生まれた」ものと考えられていた。


音楽については、古代ギリシアからの考え方(↓)が色濃く残っていた。

空の星々の動きが天上の音楽を奏で、それが全宇宙に響き渡っている…。人間は、肉体と魂の内なる動きが、星々が生み出す天上の音楽と調和しているときに、心身の健康を享受する。…人間の音楽は宇宙の聖なるメロディを忠実になぞるべき…


それが「人間至上主義革命」後には「すべての基準、価値の源泉は人間の中にある」ということになったので、芸術についても「芸術的創造と美的価値の唯一の源泉は人間の感情」ということに大きく変わってしまう。

例えば美術における人間至上主義は「人々が芸術だと思うものなら、何でも芸術なのであり、美とは見る人の目の中にあるのです」と言ってのける。

マルセル・デュシャンの「泉」という「美術作品」は、市販の小便器にサインしただけのものだ…。


ところが、すべての意味や価値の源泉、美の基準を「内なる自己」におくと、困った問題が発生する。

私がその内なる自己に耳を傾けようとすると、沈黙が返ってくるか、相争う声の不協和音が聞こえてくるかのどちらかだ

つまり、空っぽの「内なる自己」に遭遇する確率が非常に高くなる…(^^;)。


これに対する解決法?として考え出されたのが次のような公式。

知識=経験 × 感性

つまり、空っぽの「内なる自己」を満たすにはたくさんの「内なる経験」を積む必要があり、その経験を「この上ないほどの感性」で観察することが求められる。

経験と感性はお互いを高めるサイクルを継続させることが重要である。感性がなければ深い経験はできないし、よい経験がなければ感性を高めることはできない…。


ここまでが、この本の20数ページに書いてあったことの私なりの理解。

で、まず思ったのは、私の音楽鑑賞やお気に入りピアニストの選び方は、まさに「人間至上主義」的なのではないか?ということ。

音楽を聴くときは、いつでも「いい作品」や「いい演奏」を聴きたいと思っている。その
「いい」かどうかの基準は「自分がいいと感じるかどうか」であって、「世の中の名演奏の規範・基準(そんなものあるのか?)に合っているかどうか」ではない。

でも、昔の、「人間至上主義」以前の人たちは、音楽をどんな風に聴いていたのだろう? 私には想像さえできない…。


もう一つ思ったのは、現在の「人間至上主義」的教育は片手落ちなのでは?ということ。

「自分で考えなさい」「自分の感じることを大事にしなさい」とか「オンリーワン」とかは教えるが、「知識=経験 × 感性」の大事さや、その具体的なやり方については、まったく教えていないように見える。

「経験」としては、先人の知恵を学ぶことや、自分の外にある知識を学ぶことも含まれる。自分の「内」だけでの経験よりずっと豊かなはずだ。

また「感性」についても、生まれながらに十分な感性が備わっているなどと考えるのは傲慢としか思えない。感性とは、いろんな経験や学習を経て磨いていくものだ。


で、自分のことに戻って考えてみると、年齢相応の(一般的な)「経験」は積んでいるかも知れないが、音楽に限って言えばまだまだ不足しているだろうな…と思う。

「感性」の方は、それなりのものを持っていると思ってはいるが、それほど自信がある訳でもない。ただ、自分の感性とか感じ方というのは、それに代わるものがないのだから、100%信じるしかない…。

…と、蒸し暑い夜に思ったことを書き留めてみました…(^^;)。


参考:読んでいる本はコレ(↓)。図書館で予約したら下巻が先に来てしまったので、下巻から読むことになってしまった…。小説ではないので、あまり困らないけど…(^^;)。


ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来





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