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2017年9月21日木曜日

読書メモ:ピアニストだって冒険する

『ピアニストだって冒険する』(中村紘子)



22
…少しものごころがつくようになってから、或る一つの疑問がいつも心の中でモヤモヤするようになった。
「どうして私の弾く音は、あの『本場』のピアニストが出すような、ふわっと柔らかく豊かで、シンはあるのに音の周りが美しい霧に包まれたような、ああいう響きにならないのだろう?」
…自分の音だけに抱いた疑問ではなかった。…「ガンガン」「バリバリ」と「ピアノを叩く」ばかりで、…


28
「音楽の演奏にとって大切なことは、ブレスをとることです。声楽家は肺でとるけれど、ピアニストは手首で呼吸しなければなりません」
と、ショパンはその弟子たちに語っている。

30
…手首が固いとブレスが柔軟に作れなくなるばかりか、音色に繊細なニュアンスを欠き、表情がフォルテかピアノだけ、という表現になりがちとなる。

31(第2回浜松国際の審査員になって…)
…日本人参加者と欧米そしてロシアの参加者たちとの間に歴然とした違いがあるのを確認して、内心ショックを受けた。そのはっきりとした違いとは、一言に言えば、「響きが無い」に尽きるだろうか。…(響きとは)そこにこめられた奏者の率直な思いや息吹、思想や宇宙、要するにつきつめて言えば、その人を育んできた「文化」のことに他ならない。そして、ピアノ奏法から見てもっと具体的にいえば、「響きがない」とは「固い」のである。

39
…ハノンの試験…。
…最終的には練習曲の第一番から三十一番までを、命じられた調性でパッと弾けるようにならなければならない。…
…このハノンの試験というものは、日本独特のものであったらしい。…

51
「ポリフォニーを何層ものミルフィユのように音色で美しく弾き分け、生徒に弾いてみせるレッスンのできる先生が、大変少ないからではないか」と…(ウィーン国立音大教授)

52
「日本には…本当にびっくりするような素晴らしい才能の子供に出会うことがあります。…ところが、その子供が数年たって十代半ば過ぎになると、輝きが失われ、ただの平凡なつまらぬピアニストになってしまう。それは何故なのか。私は、ベートーヴェンやリストやショパンといった大天才たちの成熟した作品を、若い子供たちに具体的に教えられる先生が本当に少ないからだと思います」(ウィーン国立音大教授)

101
若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール1995・仙台
ラン・ラン、上原彩子

…当初審査委員長を務めるはずだったレフ・ブラセンコの病状悪化のため審査委員長を務めることになった…

154
…ネットも携帯も無かった時代、だったからこそ、ホロヴィッツの「スーパーカリスマ性」が存在し得たのではないか…。
二十一世紀の今日、スーパースターの意味合いは変化し、情報をより多く広く大衆に知らしむる者が、その地位を勝ち得ることとなった。神秘性はどこかにすっ飛び…

162
これはピアノ部門に参加した或る西欧の審査員が漏らした話だが、今年(2015年)のピアノ部門の最終結果を嫌ったゲルギエフは、表彰式当日になって他の審査員に断りもなく独断で順位を変えてしまったそうである。その時は、ロシア人以外の外国人審査員の大部分は既に本国に向けて帰ってしまっていた。もしかしたら、予選の間にもいろいろとあったのかもしれない。
しかし、独裁者が牛耳れば、もうそのコンクールは公正とはいえなくなる。しかも今回のその結果は「まるでモスクワ音楽院の校内コンクールみたい」とも評価された。

176
…どうも近年、クラシック音楽をはじめとする、いわゆる人間の「成熟度」を必要とする分野に携わる人々の存在感というか、社会における発言権が昔に比べて希薄になってきたように思うからである。

文化、といっても多岐に渡っていて、一言でそれを論ずることは不可能だが、その中には確実に「成熟」を必要とする分野がある。ローマは一日にして成らず、という格言通り、人間の成熟には時間がかかるが、それを寛容に受けとめる社会がなければならない。でも今日の日本でもてはやされているのは軽チャーであり、未成熟な子供っぽい思考である。大人になるより子供で居続けた方が楽しい社会、とでもいうのだろうか。

188
…十代の半ば頃までに暗譜した曲は、いつ、なんどきでも簡単に取り出せるのであるから。

193
…いまコンサートにレコーディングに活躍している菊地裕介さんと鈴木弘尚さん…

209
…日本ではほとんど知られていないけれど、ドイツで堅実な演奏活動を続けている、江尻南美さんのような存在も忘れてはならない…

214
ピアノ界を盛上げるには、羽生結弦くんのようにオーラも実力も備わった国際的に通用する真のスーパースターの力が必要となる。…そんな若者のいる気配はない。…
なぜ日本のピアノ界に、新しいスーパースターが出ないのか。

265
この作品(矢代秋雄ピアノ協奏曲)が作られてから五十年たった今日でも演奏され続けている、その理由は何かと問えば、それは恐らくこの作品が演奏者に与えるイマジネーションの「のびしろ」なのではないかと思う。演奏していると、何かしらいつも新しい感覚が湧いてきて、そこで遊ぶことができる。その感覚は、ショパンにも似てどこか即興性がある。大切なことは「弾いていて楽しい」ことである。



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