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2016年11月1日火曜日

ピアノの練習とは…?:「心で弾くピアノ」読書感想文その2

セイモア・バーンスタイン(シーモアさん:下の写真)著『心で弾くピアノ―音楽による自己発見』という本の読中感想文、第2弾である。




タイトルを「ピアノの練習とは…?」としてみたが…。

この本は、副題の「音楽による自己発見」にもあるように、ピアノの練習とは自分自身の「自己発見」「自己実現」のようなことにもつながる、またその逆もある、という考え方が基本にある。

「…生活体験が練習の仕方に影響を及ぼす…。(逆に)…練習から得られる技術、つまり感情、思考、肉体的反応の洗練とコントロールが生活に影響を及ぼすこともあるのだ。」


シーモアさんは、実際の教え子の例をあげて具体的に書いているのだが、その辺りをご紹介できるほどの筆力はないので、私なりにナルホドと思ったことを書いてみたいと思う。


ピアノの練習とは「思考・感情・体の動きを一体化すること」と書いてあるのだが、それを理解するためのヒントになりそうなことを、いくつかとり上げてみる。


まず「感情」についてちょっと面白いことが書いてある。

「音楽に対する最初の反応は、知的な分析なしに起こるものだ。たとえば、才能のある子供は、音楽の構造や歴史的事実を知らないまま、しばしば深い音楽的感情を投げかけてくる。大人が学ぶべきはこの類の無知である。」

「その美しさは、われわれのうちの何か奥深いところにあるものによって応えられる。」


「深い音楽的感情」は理屈なしに感じられるものであって、たくさんの「理屈」を身につけてしまった大人は「この類の無知」を学ぶべきだということ。大人が本当に音楽的感情を感じるには、精神のコントロールが必要になる。


そして、作曲家がその「深い音楽的感情」を書き留めたものが楽譜である。しかし、楽譜の記述力・表現力は十分なものではない。

「感情とはごく自然に経験しているものだ。…しかし、その感情を伝えようとするとき、つまり言葉(楽譜)に表し、定義づけ、書き留めようとするとき、はじめて困難が生じる。」

「多くの表情記号を自由自在に使いこなすことができたとしても、作曲家にとって、楽譜はつまるところ不十分なものである。」

「作曲家は、音符、スラー、表情記号、指使い、ペダルの指示といった形のなかに、自分の心と精神を投影しているのである。それらのひとつひとつを理解するのが、弾く者の義務である。」


「楽譜に忠実に」という言い方がある。その本来の意味は、作曲家が楽譜を通して伝えようとした「心と精神」を読み取って、音として再現する、ということなのだろうと思う。

もちろん、楽譜は不十分なものだから「解釈」の余地は残されている。でもだからと言って、演奏家は自由にやっていい訳ではないだろう。

楽譜の「行間」を読み、作曲家が伝えたかったことを理解するために「思考」「理性」「知恵」が必要になってくる。それは、大人が生活(人生)の中で身につけていくものだ。


そうして理解した「音楽的感情」を、演奏家は音楽(音)として聴衆に伝えなくてはならない。そのために「体の動き」をコントロールすることが必要になる。

このコントロールは微妙な筋肉の調整ということになるので、言葉では伝えきれないが、参考になりそうな箇所を引用してみると…。

「(スケールのような)基礎練習のときでも音楽的意図をもって音符にあたるようにする…」

「機械的に弾く時と感情を込めて弾く時とでは、筋肉の使い方が違う…」

「音楽的確信が強まれば強まるほど、技術は安定してくる。」

「最高の集中力は、自分が弾いているすべての音について自分が何を感じているかを自覚するときに発揮される。」


動作の中には呼吸も含まれる。

「感情は呼吸と運動によって決定される。」

「激しい感情が呼吸を刺激し強めるのと同様、呼吸を刺激し深めると強い感情が呼び起こされる。」

「ふさわしい呼吸をすることによって、音楽を感じる能力を増すことができるはずだ。」


なお、呼吸については、実際に使えそうな技(わざ)?がいくつか書いてある。

  • 歌手がしているように(歌うように)呼吸する
  • あるフレーズを息を吸いながら弾き、次のフレーズは吐きながら弾くことを試してみる
  • 弱音のパッセージ、あるいはフレーズの最後の音は息を止めて
  • 難しいパッセージは弾く前に息を吸って、弾き始めると同時に息を吐き始める


おまけ。ここまで書いてきて、前回書いた「つまらない演奏はどうやって出来るのか?」に対する理由を二つ思いついた。

一つは「楽譜通りに弾く」ことへの誤解。

つまり、作曲家が伝えたかった「心と精神」を理解せず、楽譜に記譜してあることだけ(音符の長さ、強弱、表情記号など)を再現している。表層的な解釈と言えるかもしれない。

もう一つは、微妙な筋肉のコントロールができずに「機械的に弾く筋肉の動き」になっていること。そうなる原因は機械的な練習というところに戻っていくのだろうが…。

ついでに言うと、音として表現できてない(音楽として伝わってこない)のに、ピアニスト自身が感極まったような動作や表情をするような場合、聴いている方がしらけてしまったり、激しすぎるアクションに引いてしまったりすることがある。

これは「思考・感情・体の動き」が一体化できていない演奏の一例かもしれない…。

参考:《ピアニストのオーバーアクション・顔芸とピアニズム!?》


『心で弾くピアノ―音楽による自己発見』




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