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2016年7月10日日曜日

一つのピアノの音にすべてを込める…

高橋アキさんの『パルランド 私のピアノ人生』という本を読んでいる。その最初のところ(p.7)に、いきなり「そうか!」と思ったことが書いてあった。





インタビューの中の発言なのだが…。

「ある識者いわく、まずは音符を正確に弾くことが基本、きちんと強弱もテンポも何もかもが仕上がったらその先にどう表現するか考える…と。」

「ええ、そんな!…そうやって分けては考えられない。一つの音に全部の要素が込められているはずだから、多少時間が余計にかかっても最初から全体を理解するように努めるべきじゃないか、と。」


この「識者」の言っていることは、ピアノ教育では何となく「常識」になっているような気がする。私もそう思っていた。

でも、高橋アキさんの「分けては考えられない」が、いきなりストーンと腑に落ちたのだ。


実は、レベルはグーンと下がってしまうのだが、自分の練習の中で似たようなことを感じていたのだ。

おそれ多いとは思うが、近況報告記事《近況:ブラームスの間奏曲、きれいな音色を求めて部分練習》から引用させていただくと…。


「で、弾けない箇所、よく引っかかる場所の部分練習(弾き方訓練)を行うのだが、そのとき、いちばん気にしているのが『音色』である。自分の気にいった、きれいな音を出すにはどうすればいいのか、を考えながら弾いている。」

「その前に、間違えずに弾けるようにするのが先なのだろうけれど、それは回数をこなすうちに指が覚えてくれるものだと信じている。それよりも、どう弾きたいかというイメージをもって練習した方が、効果が出るのではないかと思う。」


そうやって練習し始めてから、少しうまく弾けるようになってきたように感じている。「効果」は確かにあると思う。


あらためて考えてみると、音符どおりに機械的に弾くことと、表情をつける、表現するということは、別々のことではない。ピアノを弾く動作は一つだし、結果として響く音も一つなのだから…。

ケーキのように、スポンジの土台が出来たからその上に好きなデコレーションを載せましょう、というのとは違う。

作曲家が、その音を選んだこと、その和音やメロディーを選んだことと、その音がどう響くべきかは分けることなどできないはずだ。

逆に、演奏家からすると、表情や表現をまったくなしにして、音符を機械的にたどるという弾き方はできないのではないだろうか。いや、そういう弾き方ができたとしても、それはそういう「表現」なのだと思う。


もちろん、高橋アキさんの言う「一つの音に全部の要素が込められている」というのは、もっとレベルの高いことだと思う。

例えば、ウイリアム・ブレイクの詩(↓)にある「一粒の砂に世界を見る」という境地なのかもしれない。

To see the world in a grain of sand, 
And a heaven in a wild flower, 
Hold infinity in the palm of your hand, 
And eternity in an hour. 


でも、レベルに違いはあっても、音楽を構成する音の一つ一つを大事にして、どう響かせるかを考えながら弾く、そして出てきた音に虚心坦懐に耳を澄ます、というのは同じなのではないかと思う。

「耳を澄ます」ということでは、同じインタビューの中で紹介されている、アルヴィン・ルシエという作曲家の言葉も印象に残った。


「ぼくの音楽は演奏するよりも聴く要素が強い、だから聴くことが演奏になる、だから耳が良くなければ良い演奏ができない。」



【関連記事】
《読書メモ『パルランド 私のピアノ人生』1》


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