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2015年1月10日土曜日

村上春樹が語るシューベルトのピアノ・ソナタ

『小澤征爾さんと、音楽について話をする』という素晴らしい本に出会って以来(→《小澤征爾×村上春樹の対談が素晴らしい!》)、村上春樹さんの本(とくに音楽を語った本)を読みたいと思っていた。

そして、手にしたのが『意味がなければスイングはない』という本。クラシック音楽の話はそんなに多くはないが、シューベルトのピアノ・ソナタの話が出ていたので読んでみた。

 



正直に言うと、シューベルトのピアノ・ソナタはそんなに聴いたわけではないが、あまり好きではない。同じフレーズ(テーマ)の繰り返しが多く冗長な印象があり、かつ長いので途中で聴くのをやめることもある。《即興曲集》や《楽興の時》などはわりと好きなのだが…。

有名な作曲家の曲は一通り聴いてみたいと思っているのだが、シューベルト(やブラームス)はなかなか私の体質に合わない。自分で弾く曲がないかと探したこともあるのだが(→《シューベルトを弾くとしたら…(選曲準備1)》)、ちょうどいい(難易度・長さの)弾きたい曲は見つからなかった。

それで、村上春樹さんが、そのシューベルトのピアノ・ソナタについて何を語っているのか、とても興味があった。


ところが、いきなりこんな感じである。

…シューベルトのピアノ・ソナタときたら、他人に聴かせても長すぎて退屈されるだけだし、家庭内で気楽に演奏するには音楽的に難しすぎるし、したがって楽譜として売れるとも思えないし(事実売れなかったし)、人々の精神を挑発喚起するような積極性にも欠ける。社会性なんてものはほとんど皆無である。…


そう、まったくその通りなのだが…。じゃあ、なぜシューベルトは「数多くのピアノ・ソナタを書いたのか?」、なぜ村上春樹さんはシューベルトのピアノ・ソナタをとり上げるのか?


村上さんはシューベルトの伝記を読んで、「ようやく謎が解けた」と、次のように書いている。

…シューベルトはピアノ・ソナタを書くとき、頭の中にどのような場所も設定していなかったのだ。彼はただ単純に『そういうものが書きたかったから』書いたのだ。…彼は心に溜まってくるものを、ただ自然に、個人的な柄杓(ひしゃく)で汲み出していただけなのだ。


ん? それだけ? 作曲家がそれなりの規模の曲を「作曲」するという行為には、もう少し、なんというか「意思」のようなものがあるのではないのか? 何か釈然としない思いを持ちながら、先を読み進む。


村上さんは、「シューベルトのピアノ・ソナタが個人的に好きだ」「ベートーヴェンやモーツァルトのピアノ・ソナタよりもはるかに頻繁に聴いている」そうだ。そして、その理由について、次のように分析する。

シューベルトのピアノ・ソナタの持つ『冗長さ』や『まとまりのなさ』や『はた迷惑さ』が、今の僕の心に馴染むからかもしれない。そこにはベートーヴェンやモーツァルトのピアノ・ソナタにはない、心の自由な "ばらけ" のようなものがある。

そして、目を閉じて音楽を聴いていると…

そこにある世界の内側に向かって自然に、個人的に、足を踏み入れていくことができる。音を手ですくい上げて、そこから自分なりの音楽的情景を、気の向くままに描いていける。そのような、いわば融通無碍(ゆうずうむげ)な世界が、そこにはあるのだ。


…と続く。ん〜、分かったような分からないような…。さらに、そういう音楽を好むようになった要因として「時代」と「年齢」をあげている。


時代的なことを言えば、我々はあらゆる芸術の領域において、ますます『ソフトな混沌』を求める傾向にあるようだ。ベートーヴェンの近代的構築性や、モーツァルトの完結的天上性は、ときとして我々を ー それらを文句なく素晴らしいとは認めつつも ー 息苦しくさせる。

そして年齢的なことを言えば、僕は、これもあらゆる芸術の領域において、より『ゆるく、シンプルな意味で難解な』テキストを求める傾向にあるかもしれない。


…少し引用が長くなってしまった。

このあと、村上春樹の一番好きだという「第17番ニ長調 D850」の話と、彼が所蔵する15枚!のCDなど(15人のピアニストの演奏)についての解説・評価が続く。一番のお薦めはイストミンというピアニストだそうだ。新しい人ではアンスネスがいち押しのようだ。

実はこのブログを書きながら、アンスネスの弾く D850 を聴いている。確かにきれいな音で「深い森の空気」のような感触がないではない。が、まだ村上さんの境地?には至っていない自分も感じる。BGM的にはいい音楽だとは思う。(失礼!>シューベルトさん)




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